第四十話 しぃちゃん、風邪をひく(二)
しぃちゃんが風邪をひいたので、お見舞い兼夕食を作りに行こう(ついでに一緒に食べよう)。ということで、はるちゃんと亜由美と明石先輩を連れて私は谷中の商店街で買い物を済ませた。
「さーて、買い物も終ったことだし、しぃちゃんの家に行くよー」
ビニール袋を片手に四人でしぃちゃんの家に向かう。しぃちゃんの家は谷中の商店街のすぐ側にある。
しぃちゃんの部屋の前に立ち、呼び鈴を鳴らす。中からしぃちゃんの小さな「はーい」と言う声が聞こえてきた。
扉が中から少し開くやいなや明石先輩が勢いよく扉を開けて
「しぃちゃーん」
と、飛び込んでいった。きっとしぃちゃんに抱きつく気なのだろう。しかし、
「う、うわあああぁぁぁぁっ!」
という明石先輩の悲鳴が聞こえてきた。
「明石先輩、どうしたんですか?」
明石先輩の後を追ってしぃちゃんの家に入ると、中には力なく座り込む明石先輩と、空ろな目で包丁を持つしぃちゃんが立っていた。
「も、もう少しで刺さるところだった……」
「明石先輩……、いきなり抱きついちゃ危ないですよ……」
しぃちゃんの視線が明石先輩に定まらない。熱のせいだろうか。
危うく明石先輩は、しぃちゃんに抱きつこうとしたがためにしぃちゃんが持つ包丁に刺されるところだったのだ。明石先輩の防衛本能がとっさのところで働き、それを避けることができた。しかし本当に危ないところだった。
「しぃちゃん……包丁なんか持っていて一体どうしたの?」
自分の体が弱っているときに誰かが訪れたので、もしもの時にと用意したのだろうか。
「うーん、そろそろ晩ご飯の時間だから、ご飯を作ろうと思って……」
そう言いながらしぃちゃんは私たちを部屋の中へ案内した。部屋に入って左側にキッチンがある。
「しぃちゃん、今日は風邪をひいているんだから寝ていなきゃダメでしょ」
はるちゃんがしぃちゃんから包丁を取り上げようと、しぃちゃんに近付く。
「うーん、でもご飯が無いから自分で作らないと……お……?」
突然、しぃちゃんがはるちゃんの方へ倒れた。手にした包丁ははるちゃんの足へと突き刺さる!
「うわー! はるちゃん!!」
私は両手で目を覆いながら悲鳴を上げた。手の向うには包丁の刺さったはるちゃんの右足があるはずだ。
「あ……、危なかった……」
はるちゃんのぐったりとした声が聞こえてくる。
「かっちゃん、大丈夫ですよ。よく見てください」
亜由美に促されておそるおそる両手をどかし目を開ける。しぃちゃんが手にしていた包丁は、はるちゃんの右足、親指と人差し指の間の床に刺さっていた。昔中学校か小学校で男の子が指の間をシャープペンシルで素早く突き刺していく遊びをしていたと思うけど、まさにそんな感じで指の間に包丁が刺さっていたのだ。
「しぃちゃん……、危険だよ。危険すぎるよ」
私は力なく座り込んだ。酔っ払ったしぃちゃんは危険だが、熱があるしぃちゃんも同じく危険だ。
「みんな、そんなに怖がること無いのに……、私が風邪をひいたとき友達とかよくお見舞いに来たけど、誰も怪我をした人なんていなかったんだよー」
怪我をした人はいなくても、はるちゃんや明石先輩のように、危うく病院送りになるところだった人は何人もいるだろう、と私は思った。
「しぃちゃん、今日は大人しく寝ていてください。晩ご飯は私たちが作りますから」
亜由美が床に刺さった包丁をゆっくりと抜く。その瞬間、はるちゃんが口から空気が抜けた風船のように揺れながら床に座り込んだ。
「かっちゃん……、私もうダンスできないかと思った……」
はるちゃんは目を潤ませながら呟いた。この時期に足を怪我したら、一月半後の文化祭にダンスを踊ることはほぼ無理であろう。いや……本当に洒落にならないな。
「うーん、みんながそう言うから大人しく寝ることにするよ」
よろめきながらしぃちゃんはベッドまで歩き、布団も被らずそのまま倒れこんでしまった。
「さてと、しぃちゃんがおとなしくなったところで晩ご飯を作ろう」
「ところで何を作るかは決まっているのですか」
亜由美の問いに私はしばらくビニール袋の中を覗いて考えたけど
「何も考えていません!」
と、開き直ることにした。
「ちょっとー、何も考えないで買い物してたのー?」
はるちゃんの指摘はもっともだが、私はひるまない。
「そういうはるちゃんはどうなのよ。というか、誰か晩ご飯のメニューを考えていた人いるの?」
「……」
全員無言。誰も何を作るかは考えていなかったのだ。
「ほらー、私だけのせいじゃないでしょー」
私は誇らしげにみんなを見る。って自慢する事じゃないんだけど。
「私は明石先輩やはるちゃんとは違いますよ。ちゃんと考えていました。だけど、あれがこうなって、それがあれで……」
「わけの分からないことを言うな!」
亜由美はまるで宿題はしてきたけど家に忘れた、という小学生の言い訳をしている。
「はいはい、誰が悪いだの責任の擦り合いは終わり。材料は買ったんだから、それで何を作るかこれから考えようよ」
明石先輩が私と亜由美の間に割って入り、ビニール袋の中の食料を次々に出していく。 私たちが買って来たものは、豚肉、卵、豆腐、榎茸、春菊、春雨そして鱈の切り身。
「これ……どう考えても鍋を作ろうとして買った材料だよね」
明石先輩があきれ気味に私の顔を見る。外はちよっと風が涼しくなってきたとはいえ、未だ蝉の鳴き声が聞こえてくるというのに……。
「えーと元気が出て、みんなで食べるのだから鍋が一番いいんじゃないのかな」
はるちゃんが明石先輩の意見にそのままのっかかる。
「まあ季節はずれですが、みんなで鍋を食べるというのもいいんじゃないですかね」
確かにみんなの言うとおりだ。鍋はなんとなく食べて元気が出るような気がするし、みんなで食べて後片付けも楽だし。
「まあ材料と相談した結果として、これから鍋を作りましょう!」
と、亜由美が早々と結論を出して、キッチンへと一番乗りを果たしたが……。
「う、うわあぁぁぁっ!」
突如激しい悲鳴。先ほどの悲鳴の原因となったしぃちゃんはベッドの上で寝ている。(ちなみに布団は私たちがかけた)今度は一体何が亜由美を襲ったというのだろうか。
「亜由美、どうした!?」
私とはるちゃんと、明石先輩は同時にキッチンへの扉へと駆け込む。三人が三人同時に入ろうとするのだから、互いに押し合いへしあいキッチンへと入ることができない。
「な……なんかの足! 足、足、足!!」
亜由美の指差す先には濃い緑色の物体が四つほどまな板の上に置いてあった。緑色の物体は先のほうが割れていて爪のようなものも生えている気がする。亜由美の言うとおり足なのだろうか。
「足だとしたら……、一体何の足だろう……」
はるちゃんと明石先輩を押しのけて私は何とかキッチンへと入ることができた。まじまじと緑色の物体を見る。見れば見るほど何かの足に思えてくる。
「ち、ちょっと、足ってそんなグロテスクなものしぃちゃん食べようとしたの!?」
はるちゃんは足が苦手なのか(まあ大抵の人はいきなりこれがあったら驚くだろうな)しぃちゃんがいる部屋のほうへと逃げてしまった。
「しぃちゃんが京の都でなで斬りにした、侍の足じゃない、きっと」
明石先輩、まだそれを引っ張りますか。彼女は足が平気なのか、私の肩越しに足を眺める。
「侍の足は置いといて……、これは『スッポン』の足じゃないの」
「ス、スッポン!?」
スッポンとは亀の仲間で、食べると精力がつくとされる動物である。特に生き血は効果があるらしく、テレビとかでよく嫌そうにそれを飲む芸能人を見ていたけど……、生き血じゃないにしてもスッポンそのものを生で見ようとは思っても見なかった。
「しぃちゃんはスッポン料理を作ろうとしていたのね」
コンロの上にはしぃちゃんが用意したのであろう土鍋が置かれていた。
風邪に蝕まれた自らの体を癒すため、スッポンを使うとは、さすがしぃちゃんというかなんというか……。
「ここはしぃちゃんの気持ちを汲んで、スッポン鍋にしましょう」
「嫌です、私あんな足なんて食べたくありません!!」
明石先輩の提案に亜由美が半べそで拒絶する。
「大丈夫よ、亜由美。スッポンの足は出汁に使うだけだから。鍋が出来たら足は捨てるから食べる必要なんてないよ」
「そ、それならいいんですけど……」
「ところで、明石先輩。スッポンっておいしいんですか……」
いくら体にいいからと言ってまずかったら台無しだ。「もう一杯」なんて苦い顔して言っている場合ではない。
「私も食べたこと無いから分からないよ。だけど料理好きのしぃちゃんが好きなんだからおいしんじゃない」
と、明石先輩は根拠の無い自信を見せながら、鍋に火をかけた。
こうして私は生まれて初めてスッポン鍋を食べることになったのだが、味は明石先輩の言うとおり美味しかった。そして、スッポンの威力はすさまじく、しぃちゃんは風邪を治してすっかりいつものしぃちゃんとして学校に来たそうだ。
なぜ「来たそうだ」って表現をしているかって。それは私がしぃちゃんに風邪を伝染されたからである(まあスッポンのおかげか一日で治ったけどね)。