第三十九話 しぃちゃん、風邪をひく
「二ヶ月も授業受けていないとさ、そのまま受けなくてもいいかな、って気になるよね」
長かった夏休みが終わり、後期の授業に突入! まだまだ汗ばむ陽気の中を久しぶりに大学へ向かう学生もいれば、授業の有無は関係ねぇ、といつものように大学へ通う学生もいる。文化祭実行委員である私としぃちゃん、そしてダンスサークルに入っているはるちゃんは後者の方だ。
しかしそれでも夏休みが終ったという寂しさと儚さは感じるらしい。先ほどのセリフは私が食堂でカツカレーを食べながらぽつりと呟いたものだ。
「そうだね、毎日大学に来ているんだからいまさら授業を受けなくても、って感じになるね」
おお、同士よ、君もか。彼女はカルボナーラソースがたっぷりついたフォークを振り回しながら私に賛同する。ちょっと迷惑な同士だ。
「まあ一日ぐらい夏休みの気分で過ごすのもいいんじゃないですかね」
おお、またここにもう一人の同士が現れた。亜由美はチャーシューで麺を器用に挟んで口へと運ぶ。
同じ志を持つ三人が集まったのだから、「生まれた日は違えども、死ぬ日は一緒」の誓いでもたてたくなるね。誰か桃の花でも持ってきてくれないかな。
今日は軌道修正をしてくれるしぃちゃんはいない。このまま本当に授業をサボろうかな、と思っていたところへ。
「おまえら、学生の本分は勉強だろう、授業が始まったんだから出席しろ」
ハンバーグ定食をトレーに載せた姉小路会長がはるちゃんの向かいの席に座った。
「会長さん、今日はとんかつ定食売り切れていましたね」
「ああ、そうだがそれがどうした」
会長はいぶかしげに私を見ながら箸でハンバーグを半分に切る。
「いや、会長さんでもとんかつ定食が食べられない日もあるんだな……、って」
いつも私が食堂に来る頃には売り切れている「とんかつ定食」。私はこの大学に入ってから一度も食べたことが無い。ところが会長は当たり前のようにいつもそれを食べている。だから会長がとんかつ定食以外の物を食べている日はなんとなく嬉しいのだ。
「ところで今日は一人足りないようだが……」
会長が私たちを見回しながらハンバーグをさらに半分に切っていく。
「しぃちゃんは今日は風邪でお休みなんですよ」
亜由美が箸を横に寝かせて答える。寝込んだしぃちゃんでも表しているのだろうか。
「そうか、あの元気な子が風邪とは意外だな……」
会長が驚きの目を私たちに見せる。
私たちの中で一番健康そうなしぃちゃんが風邪をひくとは一番の友達を自認する私でも意外であった。
今朝、携帯電話の向うから苦しそうに咳をしながら、風邪のために休むことをしぃちゃんから告げられたときは「なんで!?」という声を危うく出しそうになったほどだ。だってあのしぃちゃんが風邪をひいたんだよ。
「そうなんですよ、どんな敵でもボッコボコにやっつけちゃうしぃちゃんが風邪で倒れたんですよ。腰につけてたケーブルでも抜けたのか、って感じですよ」
いやいやはるちゃん、しぃちゃんの腰には最初からケーブルなんてついていないから。ケーブル外れちゃったら三分後には止まっちゃうの、それとも暴走しちゃうのかい?
「そうですね、例え世界が核の炎に包まれようとも一人だけ生き残っていそうなしぃちゃんが風邪で倒れるなんて……」
うーん、亜由美。いくらしぃちゃんのパンチが強いからと言って、彼女の胸には七つ星の形をした傷跡なんてないぞ。……ってみんなしぃちゃんにどんなイメージを抱いているんだか。
それじゃあ突っ込んでいる私はどうか? って言うとそりゃあ私の中のしぃちゃんは可愛いもんですよ。フリル付のピンクのエプロンを着て、お味噌汁に入れるためのねぎを刻んで、ついでに料理の邪魔をする者も切り刻んで……、私のほうがひどいな。
「なるほど、注意する椎名さんがいないから、みんなで授業をサボろうってわけだな」
会長が話を元へ戻す。そうだった、私たち授業に出るのが気だるいんだった。
「いやー、何を言っているんですかー。授業をサボるなんて不良みたいなこと考えているわけ無いじゃないですかー」
あ、同士一人脱落。どうもはるちゃんは会長の前ではいい子でいたいらしい。
「そうですよ、誰も授業をサボるなんて言っていません。確かにかっちゃんは『出たくない』とは言っていましたが」
……脱落どころか裏切られちゃったよ。
「ちょっと、二人も『授業出たくない』って言っていたじゃない、私一人だけ悪者扱いしないでよ!」
ここにしぃちゃんがいたら私を庇ってくれるのに……、ああしぃちゃん。どうして今日はいないの?
「まあ誰がなんと言おうが関係ない。授業に出るか出ないか、問題はそこにある」
「出るに決まっているじゃないですか、当然」
私一人悪者なんて悔しいったらありゃしない。今日は絶対授業に出てやる、出る必要の無い授業にも出るんだから!
「……と言うわけで、本当に出る必要の無い授業に出たんですね」
亜由美が呆れた表情を浮かべて私を見上げる。今日は実行委員の仕事もサークルの練習も無いので、授業が終ったら三人でしぃちゃんの家にお見舞いに行こうと決めていたのだが、私が余計に授業を受けたせいで、はるちゃんと亜由美をいつも私たちが集まる喫茶店で待たせることになってしまったのだ。
「だって……、二人とも私がサボりの張本人みたいな言い方するんだもん、悔しいじゃない。これでおあいこってことでいいじゃない」
「まあ……、サボりの罪をかっちゃん一人に被せたのはちょっと悪いなって思いますけど、だからって……」
亜由美がすっかり冷えたコーヒーを飲む。
「そうだよ、かっちゃん置いて二人で行こうかとそろそろ考えていたところなんだから」
はるちゃんには反省の色は無いらしい。まあ待たせた私が一番悪いんだけど。
「分かった、本当に待たせて悪かったって、しぃちゃんの晩ご飯の材料代は私が出すから許して」
「やったー、今日はかっちゃんのおごりだー!」
はるちゃんが右拳を勢いよく突き上げる。
「ちょっと、はるちゃんにおごるって言っていないでしょ、風邪で寝込んでいるしぃちゃんのための晩ご飯なんだから」
「だけど、流れ的にみんなで晩ご飯、って展開になるんでしょうね」
う……、亜由美の言う可能性も否定できない。
「まあそうなったらそうなったらでいいよ、この中で私が一番お金持っているんだし」
そう、私は生まれて始めての競馬で六十二万という万馬券を的中させたのだ。
「さすがはかっちゃん、太っ腹。お金はこういう時のために使わなきゃ!」
はるちゃんがそう言うとなんだかそんな気分になってくるな。
「おーい、今日はしぃちゃんはいないのー?」
しぃちゃんの家へ向かおうと喫茶店を出たところで私たちは後ろから明石先輩に抱きつかれた。
「し、しぃちゃんは……、今日は風邪でお休みなんですよ」
亜由美が苦しそうに答える。明石先輩の腕がちょうど亜由美の首に絡まっているのだ。しぃちゃん曰く首がきまっている状態ってやつ?
「ええっ! 京の都で七十五人の侍をなで斬りにしたと言う伝説を持つしぃちゃんが風邪!?」
明石先輩……、一体いつの時代の伝説ですか。しぃちゃんの武器は両拳から放たれるパンチにあって、二本の刀じゃないですよ。
「そんな伝説は持っていませんが、とにかくしぃちゃんが風邪をひいたので、これからお見舞いに行くところなのです」
「私も行く! 今日はバイトもサークルもないし!」
明石先輩が怪しげな笑みを浮かべながら右手を上げた。風邪をひいて体の自由があまり利かないであろうしぃちゃんに何かをする気なのだろうか。
まあとりあえず四人でしぃちゃんのお見舞いに行きましょうか。