第三話 馬鹿カップルじゃない!
月が変わって四月――。私たちは二年生になった。何かと忙しい季節だが、二年目となれば四月の慌しさも慣れたものである。
今月は授業のお試し期間。私たち三人は一人ずつ異なる授業を受け、評価方法はテストかレポートか、毎回出席は取るのかなどの情報を集めるのだ。ここで下手に授業を選んでしまっては、後々苦労するからね。楽に単位が取れる授業を選んでおかないと。
だけど必須科目の一つである演習の科目は早々に決めなくてはならない。私たちは昨年と同じ石坂先生のゼミに入ることになった。
教室も昨年と同じ。私はいつも座っていた一番ドア側の前から二番目の席に座る。やがて授業の開始を告げるチャイムが鳴り、先生が教室に入る。
「私がこのクラスを担当する石坂です。それでは出席を取ります」
今年も来たか……、私の名前が公表される瞬間が。去年は先生に「御徒町」と言われてそのせいでみんなに密かに笑われて嫌な思いしたけど、今年の私は違うわよ、御徒町? 山手線? 大いに結構じゃないの! かかってきなさいよ!!
しかし私の気合は大いに裏切られることになる。名前の最初の文字が「お」に突入し、次こそ私の名前? と気合を入れたその時だった。先生の口から驚くべき名前が出たのだ。
「大井けいばー」
(嘘っ、大井競馬だって!?)
私が驚いている横でしぃちゃんが不思議そうな顔で私を見つめる。そうかしぃちゃんは知らないか。
大井競馬とは東京都品川区にある地方競馬の競馬場――大井競馬場――のことである。春から秋にかけて開催する「ナイター競馬」で有名な競馬場だ。仕事終わりのサラリーマンがよくそこで馬券を買うらしい。
そんな競馬場と同じ名前を持つ生徒がこの部屋にいるのである。駅と競馬場の違いはあるが、私と同じ仲間じゃないか。
「先生、違います。『けいば』じゃなくて『けいま』です」
静かなるざわめきが広がる教室で大井競馬君は冷静に先生へ訂正を求める。
大井競馬君(じゃなくて『大井けいま』君か)は髪を上下ツーブロックに分け、上は目まで届くらいの長さ、下の部分はちょっと刈り上げている(上から伸びている髪のおかげで下は半分くらい隠れているけどね)。
服装は緑と基調としたシャツ。ズボンはここからは見えない。背はきっと高いと思う。
「ああ、そうかすまん。大井景馬―」
「はい」
大井君は自分の名前が呼ばれたことに対して満足そうに返事をした。周囲のリアクションなど全く気にしていない。去年の私とは大違いだ。
「出席を続けるぞー。御徒真知―」
「あっ、はい」
不意に先生が私の名前を呼ぶので、私はいつもより声が高くなってしまった。
「大井競馬と御徒町か……」
先生が小さく呟く。私は勢いよく立ち上がると左手を差し出し先生に向かって叫んだ。
「いや、先生違うから!」
あれ、なんか低い声が混じっているぞ。私は顔を右に向け声の主を探す。大井景馬君が右手を差し出して立ち上がっているではないか。
「……そんなに勢いよく突っ込まなくてもいいだろう」
石坂先生が戸惑いながら私たちを見ると、教室中がどっと笑い声に包まれた。
「もーう、先生ったらなんであんなことを言うかな」
授業が終わり、先生が教室を出たのと同時にしぃちゃんが机を軽く叩いた。
「まあ私は今年も言われると思ったけどね。はるちゃーん出るよー」
私は後ろに座っているはずのはるちゃんを見たが、姿が見えない。
「あれ、はるちゃん?」
私ははるちゃんの姿を探す。はるちゃんは教室の後ろのほうで大井君と何か話をしていた。
「おーい、はるちゃん……」
小声で二人の会話に割って入る。はるちゃんは私の姿を見るや、頭をかきながら
「いや……御徒町さんと一緒にされて大変だったなぁって……。ねぇ大井君」
「あ……うん」
大井君は困りながら頷く。そういう会話はどうかと思うぞ、はるちゃん。
「大井君は昔から『大井競馬』って言われてきたの?」
荷物をかばんに入れたしぃちゃんが会話に入る。
「うーん……。実家が東京じゃないんで、そんなに言われなかったかな。競馬を知っている人や親戚のおじさんには時々言われたけど……」
実家が東京だったら私のように毎日からかわれていたんだろうな。
私たちは教室を出て、廊下を歩きながら話を続ける。
「まあ文句を言ってもきりが無いし、しょうがないと思っているけどね。だからさっき突っ込んだのはすごく久しぶりだったよ」
「久しぶりか……。だからあんなに勢いがある突っ込みだったのね」
はるちゃんが感心した声を上げると「あ、そうそう」と、私としぃちゃんを見た。
「それでね、ちょっと変わった名前を持つもの同士、一緒に演習をしないかと言う話をしていたの。大井君去年は違うゼミにいたから、ここでは知り合いいないみたいだし」
「御徒町(真知)」「椎名町(真智)」「大井競馬(景馬)」そして「伊井国造郎(お父さんの名前だけどね)」まさにおかしな名前のドリームチームの結成……と言ったら大げさか。
「そうだねー。人が多ければいろんな意見が聞けるし、私は賛成だよ」
「私も構わないよ。女だらけだけど、大井君がそれでよければ」
大井君は「そうだなぁ……」と左手を顎に当てて考えていたが
「このゼミには一人も知り合いがいなかったから、一緒に演習やってくれるなら俺も助かるよ」
大井君はすぐに笑顔で答えてくれた。
「よっしゃ、ドリームチーム結成!」
嬉しさのあまり私はつい頭の中の妄想を口に出してしまった。
「かっちゃん、ドリームチームって何?」
しぃちゃんが冷静に私に尋ねる。
「いや、なんでもないから……」
「演習の仲間から恋人同士に発展……ってことになったりして!?」
隣でははるちゃんが別の妄想に耽っている。
「いや、悪いけどそうはならないと思うよ。なぜなら……」
「ダーリーン!!」
大井君が冷静にはるちゃんの妄想をあっさりと斬る最中、どこからか聞いたことのあるような声が聞こえてくる。
次の瞬間大井君は後ろから何者かに激しく抱きつかれた。
「うわっ!」
私は自分が抱きつかれたわけでもないのに驚きの声を上げる。しかし当の本人である大井君は驚きもせず、抱きついてきた者の手を優しく掴む。
「人前で抱きつくなんて恥ずかしいだろ、真値」
えっ、まち? 私? しぃちゃん? それとも?
「いや、ダーリンの姿を見たら嬉しくなっちゃって」
と、大井君の背後から顔を出したのは、なんとかわちゃんだった。
「かわちゃん!?」
「あー、先輩だー。こんにちはー」
私たちの姿を見たかわちゃんは、大井君から離れると丁寧にお辞儀をした。
「こんにちは、かわちゃん。かわちゃんと大井君は付き合っているんだね」
「そうなんです、二人は愛し合っているんです」
しぃちゃんの質問にかわちゃんは大井君と腕を絡ませながら答える。
「一生懸命勉強して彼氏と同じ大学に入ったわけだ」
はるちゃんが少し呆れ気味に二人を見る。
「……あのな、君達勘違いをしているかもしれないが……」
大井君が慌てながら手を振る。二人は付き合っていないと言うことだろうか。しかし大井君から出た発言は私の想像を超えたものだった。
「俺たちは決して馬鹿カップルじゃないぞ。俺は確かに世界で一番、真値を愛してはいるが、決して馬鹿カップルじゃないぞ」
大井君のとても恥ずかしい発言に聞いている私のほうが恥ずかしくなってしまった。頬に熱を感じる、隣のしぃちゃんの頬もほんのり赤い。
「そういう発言が馬鹿カップルじゃないかと思うんだけど」
はるちゃんが冷静に突っ込みを入れる。ここにいる五人の中で、一番恋愛に縁遠い彼女だから出来ることだろうか。
「いや、違う馬鹿カップルとは人前でキスを平気でするやつらだ。俺にはそれができん! だけど、俺は真値を愛している」
恥ずかしい発言に加えて「まち」「まち」って、なんだか私が言われているみたいでさらに恥ずかしいぞ。
「もしかわちゃんが大井君と結婚したら、『大井真値』になるんだねー」
しぃちゃんが空気を変えようと、微笑ましく発言する。その発言の中に私はとんでもない事実があることに気がついた。
「そうなんですー。結婚したら『河原町』って言われなくてすむんです。」
「おかしな名前とさよならできるんだね」
「そうなんですよ、椎名先輩。私の夢は彼のお嫁さんになって、『河原町』とからかわれないことなんです」
かわちゃんは嬉しそうに答えながら、大井君とさらに密着する。
「おい真値、人前では恥ずかしい、言っているだろう。ほら次の授業行くぞ」
「分かったわよ、ダーリン。それじゃあ先輩たち、お疲れ様でした」
階段を下りていく二人を微笑ましく見送るしぃちゃん、一方落ち込んだ顔で見送る私とはるちゃん。
「ん、どうしたの? 二人とも落ち込んだりして」
しぃちゃんが頭に「?」を浮かべながら私たちを見る。
「いや……、運命ってすごく残酷だなぁと思って……」
本当だ、運命とは何て残酷なんだろう。
「ひょっとしてかっちゃんも同じこと思っていた?」
「はるちゃんもそう?」
はるちゃんは大きく頷く。
「うん、私も分かった。さすがに私でもこのタイミングでこれは言えないと思った」
「だけど、いつかは気がつくことだよねー」
それを知ったときのかわちゃんを思い、私とはるちゃんは大きなため息をついた。
「もーう、二人ともどうしたの一体?」
しぃちゃんが背を伸ばして私たちの顔を見る。私とはるちゃんはほぼ同時に同じ事を言った。
「あのね、しぃちゃん。東京には『大井町』と言う駅があるんだよ」
大井町――、「京浜東北線」と「りんかい線」が通る駅で、品川駅の隣に位置する。私の御徒町からは京浜東北線で二十分かかる。
つまりかわちゃんは結婚した後もちょっとおかしな名前の持ち主のままなのだ。
「うーん、そうか……でも二人の愛があるからそんなの乗り越えるんじゃないのかなー」
私たちの説明を聞いたしぃちゃんは二人が歩いていった廊下を見つめた。
「二人の愛か……私には一度もなかった言葉だね」
はるちゃん、それはちょっと悲しいよ。
「それにしても初めて知ったよ。『大井町』なんて駅よく知っているのね」
「そうだね、かっちゃんの鉄道オタクぷりには驚きだね」
しぃちゃんとはるちゃんがにやけながら私を見る。だから私は「鉄道オタク」じゃないって、東京の路線にちょっと詳しいだけだって。本当に鉄道が好きな方に比べたら、「月とすっぽん」だって。……ってちょっと待てよ。はるちゃんが私を見るのはおかしくないか?
「ちょっと、はるちゃんも『大井町』知っていたでしょ!」
「もーう、かっちゃん。私『大井町』って初めて知ったよー」
「しぃちゃんの真似するな!」