第三十四話 はい、手品しまーす
イラケン選手の控え室の前は報道陣でひしめきあっていた。毎回のことだから別に驚かないけど、今回はいつにも増して多いような気がする。
「去年の再戦だからね。マスコミの注目がいつもより多いのも当然だよ」
しぃちゃんが小さな体を思いっきり伸ばして控え室の中を覗こうとするが、背が小さすぎて見ることが出来ない。
「はるちゃん、中の様子見える?」
はるちゃんはちょっとつま先立ちになった後、つまらなさそうに口を尖らせた。
「黒い頭ばっかりって感じ。イラケン選手の姿なんてさっぱり見えないわ」
背を伸ばすことを諦めたしぃちゃんは今度は何度も飛び跳ねて中を覗きこむ。しぃちゃんの脚力なら報道陣の背を簡単に越えられるのだが……。
「うーん、人、人、人、人ばっかり。誰がイラケン選手だか分からないよ」
「これじゃあ今日挨拶するのは無理かもしれないね」
私もちょっと背を伸ばして中を見るけど、二人の言うとおり、黒い頭の人だらけ。さらには激しいカメラの光が部屋の中のあちこちから私の目へと突き刺さる。
「今日の対戦相手はー……」
報道陣の質問の声が聞こえるけど、どんな内容なのかはよく聞き取れない。
「残念だけど、今日は帰ろうか。イラケン選手には明日ジムで会えばいいよ」
はるちゃんがあっさりと言った後で、出口のほうへと足を向けた。明日ジムで会うって、はるちゃんの家はジムから遠いのに……ひょっとしてしぃちゃんの家に泊まる気なのかな?
「……と言うわけで、しぃちゃん今日は家に泊めてねー」
「うん、別に私は構わないよー」
ああ、やはりそのつもりだったか。
しぃちゃんは笑顔で承諾する。
「よかったらかっちゃんも泊まりにおいでよ。みんなで泊まったほうが楽しいよー」
「そうだね、お母さんに電話しておくよ」
ちょっと遅くなるけど晩ご飯は何にしようかと、話し合いながら私たちは後楽園ホールを出た。
「おーい、お前らも試合を見に来ていたのかー」
後楽園ホールから水道橋駅へ向かおうとホールの隣の黄色いビルの前を歩いていたところ、知っている声に呼び止められた。
「あ、タカビー。それに姉小路会長」
声の主はタカビーだった。なにやら焼き鳥らしきものを頬張っている。その後ろにいるのは姉小路会長。こちらが食べているのは……。
「そんなに覗き込むな、これは牛のモツ煮込みだ。とんかつではないぞ」
気がついたら私は会長にかなり迫っていたらしい。はるちゃんも私の隣で会長が持っているお椀の中身を覗きこんでいる。
「さっき『お前らも試合を見に来ていたのか』って聞いたけど、タカビーと会長もイラケン選手の試合を見ていたの?」
私が尋ねると、タカビーは焼き鳥の串をゴミ箱に放り投げて答えた。
「ああ、立見席だったがな。だけどさすが世界戦だ、立見でも料金が高いのなんのって」
「へー立見だったんだー」
はるちゃんは意地悪そうな笑みでタカビーと会長を眺める。
「なんだその優越感は、はる」
「いやー、そりゃあ優越感に浸りたくなるよ……ねぇ二人とも」
はるちゃんは両隣の私たちに同意を求める。
「もーう、はるちゃん失礼だよその言い方は」
しぃちゃんが申し訳なさそうにタカビーと会長を見る。
「私たちはリング側の実況席の裏側で見ていたのよ」
「しかもタダで!」
私の回答にはるちゃんが勢いよく続ける。
「何をー? お前らタダだとー?」
会長が驚きの声を上げて私たちを睨んだ。
「謝れ、この試合を見るために文化祭実行委員会の仕事の合間を縫って一生懸命アルバイトをした高見に謝れ!」
会長が言うとなんだか本当にタカビーに申し訳ないことをした気分になってしまう。
「会長の命令だけど、謝る訳にはいかないわよ! 私たちとイラケン選手が仲良しだからできることだもん。謝ったらイラケン選手に失礼よ」
はるちゃんが大きくない胸を張って反撃する。はるちゃんの言い分はもっともだ。
「それに、私たちとイラケン選手の仲がいいから今年の文化祭イラケン選手は来てくれるんでしょ! なおさら謝る必要ないじゃない。むしろ私たちに感謝すべきよ」
はるちゃんの気勢に会長は割り箸を咥えて
「ううむ……そこまで仲がよいのなら仕方が無いが……」
会長がしぶしぶ納得する姿を見て、はるちゃんの顔がはじけた。そして右手でガッツポーズを取る。
「やったー、初めて会長を言い負かしたわ!」
「はるちゃん、会長といつも言い争いをしていたの?」
そうだとしたら今までの対戦成績はどのくらいなのだろう……。会長の圧勝なのだろうか?私が尋ねるとはるちゃんはにやりと笑って、右手を腰に当てた。あ、何か嫌な予感する。
「そんなわけないじゃない!」
あ、やっぱりそう来たか。
「別にいつも言い争いしているわけじゃないけどさ、会長っていつも大人の意見を言って周囲を納得させるじゃない。なんかそれが悔しくてさ、いつか言い負かしたいなーと思って」
どうやらはるちゃんは会長に理不尽な不満を持っていたようだ。
「ところで俺のバイトの話はいいのか?」
タカビーが二本目の焼き鳥を手に持ちながら小さな声で私たちの会話に割って入る。
「タカビーの話は置いといて、会長さんはイラケン選手の試合を見るためにアルバイトはしなかったのですか?」
非情にもしぃちゃんが話の流れを会長に向ける。かわいそうなタカビーは寂しそうに焼き鳥の一かけらを口にした。
「ああ、俺は一応アルバイトもしているけど、他にお金を稼ぐ方法があるから……」
「えっ!? まさか人様には言えないようなことを!」
私の頭の中で、ありえない儲け話を人のよさそうなサラリーマンに持ちかける会長や、事故に巻き込まれたと顔も知らぬお婆さんに電話をかける会長……と、次々に会長が悪事を働く姿が展開されていく。
「何を考えているかは知らないが、犯罪行為ではないぞ。ちょっとした手品のようなものだ」
「え? 手品!?」
私の頭の中では、耳がいきなり大きくなったり、手品の合図に「にゃ!」と可愛く叫んだりする会長の姿が……。
「手品と言っても別に耳が大きくなったり、懐からアライグマが出てくるわけではないぞ」
あ、私の妄想が思いっきり否定された。
「手品と言っても、誰でもできる手品だよ。名付けて『九十秒で百円が一万円に変わる手品』」
「九十秒で百円が一万円に変わる手品!?」
私としぃちゃんとはるちゃんが同時に叫んだ。しぃちゃんがソプラノで、はるちゃんがアルトで、私がその真ん中ね。
「イラケン選手の試合が早く終ったので、今もその手品をやっている最中なんだ。君たちもよかったらやるかい?」
「はい、是非やりたいです!」
はるちゃんが元気よく右手を上げる。
「百円が一万円かー」
耳が大きくなるやつより難しそうだけど面白そうだな、と私は思った。
「会長が言っていた『手品』って競馬のことだったんですねー」
私たち五人は耳に赤鉛筆を差して競馬新聞を眺めるおじさんたちの集団の中にいる。
後楽園ホールの隣の黄色いビルは競馬の場外馬券販売所になっている。上の部分は土日に開催される中央競馬の場外馬券販売所だが、一階部分の一部は平日に開催される地方競馬――大井競馬場(けーまが聞いたら怒りそうだ)の場外馬券販売所になっているのだ。中央競馬は昼にしかやらないけど、大井競馬を初めとする一部の地方競馬は春から秋にかけて夜に競馬をしている。勤め終わりのサラリーマンを狙ったナイター競馬だ。
「この『マークシート』と言う紙に自分が来ると思う馬のゼッケン番号と賭ける金額を記入する。そしてあそこにある機械にお金とこの紙を入れれば馬券が出てきておしまい」
会長が淡々と馬券の買い方を私たちに教えてくれる。
「それで、予想が当ったら一万円がもらえるんですね、先生」
はるちゃんは早くも青いプラスチックで出来た鉛筆を取ってマークシートに書いている。
「必ず一万円がもらえるわけではない、賭けた金額や、その馬券の人気によっても戻ってくる金額は大いに異なる。極端な話、百円が二百円にしかならないこともあれば、百円が数百万と化けることもある」
会長が競馬新聞を睨みながら答える。
「人気のある馬券を買えば当りやすいが、戻ってくる金はその分少ない。逆に人気の無い馬券を買えば当りにくいが当ったときの戻ってくる金額は高い。そういうことだ」
何本目かの焼き鳥の串を加えながらタカビーはマークシートに自分の予想を書き込む。
「私は未成年だから馬券は買わずにみんなを応援することにするよ」
しぃちゃんが遠慮がちに呟く。馬券は未成年の人は買えないらしい。ここにいるメンバーでしぃちゃんが唯一の未成年者だ。
もうすぐ二十歳になるのにもったいないなぁ、と思いながら私はマークシートに何を書こうかと迷った。私は馬券の種類の中でも一番難しいとされる「三連単」という馬券を買おうとしている。レースの一着から三着になる馬を順番どおりに予想するという馬券だ。一着と二着が逆だったらハズレ! と言うなかなか厳しい馬券である。
さて、今日が初めての競馬だけど、一体何を買えばいいのか分からない。適当に思いついた数字を書こうっと。
と、考えて私は今日のイラケン選手の試合を思い出した。イラケン選手の今日の試合は五ラウンド一分四十五だから、一着が五番で、二着が一番……。三着は四十五秒って、四十五頭も馬が走るわけじゃないので、四は外して十五番! 五→一→十五の三連単百円勝負でどう?
百円玉とマークシートを機械に入れると一枚の馬券が出てきた。生まれて初めて買う馬券。外れても捨てずに記念にとって置こうっと。