第三十三話 再戦、イラケン選手対スケベニンゲン
私としぃちゃんとはるちゃんは今、後楽園ホールにいる。
ボクシングミドル級の世界チャンピオン、町田イラケン選手四度目の防衛戦を見に来たのだ。もちろん席はいつもの通り実況席の真裏である。これもイラケン選手というコネがあってこそできるものだ。
はるちゃんはサークルの合宿から帰って来たばかり。去年は予算が無くて、葉山の合宿所だったが今年は他のダンスサークルと合同で、高知県の海で合宿をしたのだという。
おかげではるちゃんの肌はきれいな小麦色になっている。
私としぃちゃんは、去年はお手伝いで合宿に参加したけど、今年は文化祭実行委員会の仕事があり、ずっと大学に通っていた。
そのため私としぃちゃんの肌は穢れのない(ごめん、言い過ぎた)白い肌である。
さて、イラケン選手の今宵の相手はタイ人のチャウワ・スケベニンゲンである。名前は
「スケベニンゲン」だけど、家族思いの気さくな人だ。昨年私とはるちゃんは彼の家族に遭遇し、彼の家族一人一人の写真を撮らされる目に遭っている。
「今回で二回目だけど、スケベニンゲンは強くなってるのかな」
はるちゃんが心配そうに青コーナーサイドースケベニンゲンの入場口を眺める。
「いやー、今年に入ってイラケン選手強いから大丈夫でしょ」
私は気楽に答える。
イラケン選手は昨年末最初の防衛戦は判定で辛くも勝利したけど、今年に入っての二戦は半分の六ラウンドもいかずにKO勝ちしている。圧勝と言っても過言ではない。
「でもね、スケベニンゲンは前のチャンピオンだから、そう簡単にいかないと思うんだ」
しぃちゃんは冷静だ。イラケン選手の一番のファンだけど、強さの判定は公平に行きたいのだろう。
「青コーナーより、チャウワ・スケベニンゲン選手の入場です」
「あっ来た!」
青コーナーサイドをずっと見つめていたはるちゃんが叫んだ。
太鼓の軽快な音と、たくましそうなおじさんと、若い女性のうなるような歌声。あと時々聞こえるストローで作った笛のような音と何だかわからないけど頭に響くこれまたうなり声のような、ガラスに爪を引っ掻いたような音が聞こえてくる。(はるちゃんが言うにはテルミンという電子楽器らしい)
その曲の中で、四人のスケベニンゲンが一列になって現れた。
先頭から順にタブン・スケベニンゲン、オソラク・スケベニンゲン、チャウワ・スケベニンゲン、マジデ・スケベニンゲン。昨年と変わらぬ順番である。
そして私の予想通り、観客席には母親のソダテタ・スケベニンゲンが祖父であるオレガ・スケベニンゲンの遺影を抱えて座っている。
実況のアナウンサーはこの光景をよく笑えずに話せるものだと感心してしまう。私はなんとか笑うまいと必死に口を抑えた。
はるちゃんも自分の頬をつねって笑いをこらえている。二回目だから去年よりはインパクトは無いけど、おかしいことには変わりは無い。
「もーう、二人とも何がおかしいのよー。挑戦者に失礼でしょ」
真ん中に座るしぃちゃんだけが真剣な表情でスケベニンゲン一家の隊列を見つめている。
「いや……分かっているんだけどさぁ」
私も変わった名前を持っているので、名前について笑われるのはちょっと抵抗ある。だから人の名前について笑ってはいけないと、分かっているのだけど……。これは強烈過ぎるよ。
入場曲が鳴り止み、チャウワ・スケベニンゲンが、ロープをまたいでリングに入る。昨年はチャンピオンとしてリングに入ったが、今年は挑戦者だ。
「赤コーナーより、チャンピオン、町田イラケン選手の入場です」
リングアナウンサーの声とともに、町田イラケン選手の入場曲である「やんちゃ将軍江戸日記」のテーマ曲が流れてきた。昨年、スケベニンゲンとの試合前に、「やんちゃ将軍江戸日記」の主役である徳川吉宗を演じ、そのために世間から「将軍」と呼ばれている大物俳優の町平健さん直々に使用を許可された曲である。
チャンピオンベルトを高々と掲げるトレーナーの後に続いてイラケン選手がホールの中へと入る。相変わらず、背筋と腹筋が鍛えられていて綺麗である。時々谷中霊園でトレーナー姿の彼に会うけど、上半身裸の彼に会うのは試合のときしかない、もうこれで五回目だけど、なんだかちょっと照れてしまう。
ロープをくぐってイラケン選手がリングに入る。昨年は挑戦者だが今年はチャンピオン。四度目の防衛戦、なんだかチャンピオンの風格って言うものが出ているな。と素人ながらに思う。
「一度対戦しているから相手の得意なところとか、苦手なところは互いに分かっていると思うわ。問題はこの一年間でどれだけ変わったか、と言うことよ」
しぃちゃんがリングの二人を見つめて呟く。スケベニンゲンは知らないけど、イラケン選手はかなり強くなったと思うぞ。
双方のリングコール、審判の説明が終わり、いよいよ試合開始のゴングが鳴る瞬間が来た。ほぼ一年ぶりの対戦が今、始まる。
一ラウンド目は互いに相手の様子を見ているためか、あまりパンチを出さず、出しても軽いジャブだけで終った。まあイラケン選手の試合はいつもこの状態から始まるから「もっと攻撃しろ!」なんて野次は入れないし思わない。
二ラウンド目に入ってイラケン選手が動き出した。左のジャブを的確にスケベニンゲンに当て続けていく。そして時折入れる右ボディ。スケベニンゲンがボディに弱いことは前回の試合で証明されている。今回もそれを狙っているのだろうか。
第三ラウンド、第四ラウンドもこの状態が続き、イラケン選手はほぼノーダメージ、スケベニンゲンはイラケン選手の右ボディを十発ほど受ける結果となった。
第四ラウンド終了後に三人の審判からこれまでの採点の途中結果が発表される。結果はもちろんイラケン選手の優勢。三人とも四十対三十六でイラケン選手の勝ちと判定したのだ。
「二人とも、分かっているけどこれは途中結果だからね。まだ喜んじゃダメだよ」
しぃちゃんが私とはるちゃんに釘を刺す。口だけではなく、私とはるちゃんの腕をがっしりと握り締めている。
しぃちゃんは昨年の試合で興奮した私たちに何度も何度も揺らされ、試合衆力直後に目眩を起こして倒れている。私の腕を掴むしぃちゃんの力は今度はそんな目に遭わないぞ、と言う彼女の強い意志の表れであった。
第五ラウンド――スケベニンゲンがイラケン選手のボディパンチを明らかに嫌がり始めた。パンチを受けるたびに泣きそうな顔になるのである。それまで、両拳を頭に掲げて頭部への攻撃をガードしていたスケベニンゲンだが、その腕が徐々に下っている。頭部よりもボディのガードに重点を置いたのだろうか。そのために今まで拳で守られていたこめかみの辺りがノーガードになった。
イラケン選手はそれを狙っていたのだろうか。左のジャブをスケベニンゲンの左のこめかみ放った。スケベニンゲンの体が斜めに傾き、腕が下がる。
がら空きになった顔面をイラケン選手の右ストレートが捕らえた。スケベニンゲンがよろめきながら後ろへ下がる。
イラケン選手は逃すまいと前に詰める。素早いパンチがスケベニンゲンの顔面へと放たれる。早すぎて何発打っているのか私には見えない。私は心の中でなぜか「オラオラオラオラオラ!」と叫んでいた。
心の叫びを上げているうちに、スケベニンゲンが両膝をマットについてうつ伏せに倒れた。
「倒れたよ、スケベニンゲンが倒れたよ!」
しぃちゃんが私とはるちゃんの腕をしっかりと掴みながら叫ぶ。と言うかしぃちゃん、ずっと握りっぱなし。
カウントが八になってもスケベニンゲンは立ち上がろうとしない。カウント九、十……。試合終了のゴングがイラケン選手の勝利をホール中に伝えた。五ラウンド一分四十五秒。イラケン選手のKO勝ちだ。昨年まぶたを切って苦戦したのとは違ってイラケン選手の圧勝である。
「やった、やった。イラケン選手の勝ちだよ!」
はるちゃんがしぃちゃんの肩を掴んで揺らそうとしたが……。
「すごーい、やっぱりイラケン選手は最高だよー!」
と立ち上がって、私とはるちゃんのこめかみを軽く掴んだ。確かこれは「アイアンクロー」と言う技だ。徐々に力が強くなっているような気がする……。
イラケン選手が観客の声援に応えて退場するまで、私とはるちゃんはしぃちゃんに抑え続けられることとなった。
「はい、それじゃあイラケン選手の控え室に行くよー」
しぃちゃんが手を離して歩き出す。しかし私とはるちゃんはこめかみの痛さにしばらく動くことはできなかった。