第三十一話 日本最強の姉妹喧嘩
太陽の光が眩しい千駄木の町を私はしぃちゃんを背負って歩いている。時刻は午前九時半。しぃちゃんは昨夜お酒を飲みすぎて寝てしまい、かわちゃんがアルバイトに出かける時間にも起きなかったのだ。
巣鴨駅まではタカビーが背負ってくれたけど、そこからは私としぃちゃん二人きりなので、日暮里駅からは私が背負っている。しぃちゃんは昨夜の大暴れ(それでも怪我人や壊したものはなかったけど)とはうって変わってすやすやと安らかな寝息を立てている。
私が向かう先はしぃちゃんの家ではなく自分の家だ。しぃちゃんの妹の結衣ちゃんが、私の家にお泊りしているので、結衣ちゃんになんとかしてもらおと考えているのだ。
私が玄関を開けると、中からお母さんが出てきた。
「お母さん……、ご飯二人分ある……」
私は今にも力尽きそうな声を出す。いくらしぃちゃんが小さいからと言って、駅から十分も背負って歩くのはかなりの運動だ。
「電話入れてくれたから用意してあるわよ」
そう言ってお母さんは私としぃちゃんを居間へと案内する。居間には真耶と結衣ちゃんがちょっと遅めの朝ご飯を食べていた。
「ちょっと、お姉ちゃん。何やっているのよ!?」
しぃちゃんの姿に驚いた結衣ちゃんがお茶碗を片手に立ち上がり、しぃちゃんを揺らす。
「んー、あー、何で結衣がここにいるのー?」
まだ寝ぼけ眼のしぃちゃんは、突然の妹の登場に驚いている。
「というかここは一体どこなのー? かわちゃんの家じゃないのー?」
ずっと寝ていたからまだかわちゃんの家だと思っているのか。
「しぃちゃん、ここは私の家だよ。起きたのならそろそろ降りてくれないかっ! な……」
もう体力の限界だ。私はしぃちゃんを背負いながら畳の上に尻餅をついた。
「もーう、かっちゃん危ないじゃない!」
その衝動でしぃちゃんは完全に目が覚めたようだ。ゆっくりと私から離れると、「おじゃまします」と丁寧に真耶に頭を下げた。
「あ、いいえ。お構いなく……」
お味噌汁をすすりながら真耶も丁寧に頭を下げる。
「ほら、しぃちゃん。目が覚めたことだし、一緒にうちで朝ご飯食べよう」
「家まで背負ってもらった上に朝ご飯まで頂けるなんて、なんだか申し訳ないなー」
そう呟きながらちゃぶ台の前に正座するしぃちゃん。完全に酔いは醒め、いつものしぃちゃんに戻ったようだ。
お母さんが私としぃちゃんのご飯とお味噌汁とちゃぶ台の上に置くと、私としぃちゃんは同時に「いただきます」と頭を下げた。いつものことながら、私がアルトで、しぃちゃんがソプラノである。
「そういえばかっちゃん、もうすぐイラケン選手の試合だね」
鮭の塩焼きを箸で切りながらしぃちゃんが嬉しそうに声を上げる。
「あー、そう言えばイラケン選手そんなこと言っていたなー。相手は誰だっけ?」
お味噌汁をすすりながら、私は一昨日、イラケン選手が試合について話していたことを記憶の中から手繰り寄せようとしている。えーと確か相手は……。
「スケベニンゲンだよ。去年の試合以来一年ぶりの闘いだね」
そうだ、チャウワスケベニンゲンだ。と私は頬に力を入れて、お味噌汁を噴出しそうに鳴るのを抑えた。「ちゃうわ、すけべ人間」ではない。「チャウワ・スケベニンゲン」対出身のボクシング選手である。
去年の九月、イラケン選手はチャウワ・スケベニンゲンに勝利し、ボクシングの世界チャンピオンになった。
イラケン選手はその後チャンピオンの座を三度防衛し、現在も世界チャンピオンである。私としぃちゃん、そしてはるちゃんはその全ての試合をリングの側で観戦した。
今まで見たイラケン選手の四回の闘いの中で一番印象に残っているのは、やはりチャウワスケベニンゲンとの試合である。生まれて初めて見たボクシングの試合と言うこともあるが、イラケン選手が世界チャンピオンになったということもあるし、一番の要因は「スケベニンゲン」と言う名前のインパクトか。
あの試合からもう一年になろうとしているのに未だに「スケベニンゲン」という名前に慣れないでいる。
「またボクシングの話ー? 朝からいい加減にしてよお姉ちゃん」
結衣ちゃんが迷惑そうにしぃちゃんを睨む。
「何よ、結衣。ボクシングを邪険に扱うなんて許さないわよ」
しぃちゃんが箸を結衣ちゃんに箸を向ける。
「お姉ちゃんはいつもいつもいつもボクシングの話で周りが迷惑しているの気がつかないのかしら」
結衣ちゃんはしぃちゃんのボクシング熱に辟易しているのだろう。お茶を飲みながら鋭く呟く。
「そうかな、周りの空気を読まずにキックボクシングの話をしているよりはマシだと思うけど」
しぃちゃんが油ののった鮭の切り身を切りながら不機嫌そうに反論する。
「お姉ちゃん、キックボクシングがくだらないとでも言いたいわけ!?」
「結衣こそボクシングのこと馬鹿にしているのでしょう」
二人の発言の勢いがどんどん上がっていく。
「ボクシングなんてパンチしか使えない格闘技のどこがいいのよ」
今の結衣ちゃんの発言。私でもちょっとムッと来たぞ。しぃちゃんならなおさらだろう。
「分かっていないわね、両腕しか使わないで相手を倒すことに美学があるのでしょ」
「それに蹴りが加わるからもっと楽しくなるんじゃない。パンチだけなんて、あーつまらない」
結衣ちゃんのその言葉を聴いて、しぃちゃんは激しくちゃぶ台を叩いた。
「もーう、怒った! 結衣、表に出なさい!!」
「望むところよ!」
結衣ちゃんはお味噌汁を飲み干すと、勢いよく立ち上がった。
セミの声が鳴り響く私の家の庭にしぃちゃんと結衣ちゃんは向かい合って立っている。その姿を見たペルが、散歩に連れて行ってくれるのかと勘違いしたのか、尻尾を振って二人の横を走り回る。
「勝負はいつも通り、私はパンチのみ、結衣は蹴りしか使わないこと、いいわね」
しぃちゃんが両拳を固めて結衣ちゃんに告げる。
「お姉ちゃんが大学に出てから一度も勝負してないけど、その間私の蹴りがいかに上達したかお姉ちゃんに見せてあげるわ」
結衣ちゃんは右の膝頭をしぃちゃんに向けて少し上げる。
「いつも通りって……、二人はこういう喧嘩をしょっちゅうしているの?」
私と真耶は朝ご飯を縁側に置いて食べながら庭にいる二人の様子を見ている。
「うーん、しょっちゅうってわけじゃないけど……、年に一度は必ずしていたかな」
「対戦成績は何勝何敗でどちらが勝っているの?」
沢庵をかじりながら真耶が二人に尋ねる。
「十戦……、いや十一戦全勝で私の勝ちかな?」
パンチはキックよりも強し、というわけか。
「今まではお姉ちゃんに負けてばかりだったけど、今日こそお姉ちゃんに勝つわよ!」
二人はそのままの姿勢でじっと対峙している。二人の間は二メートルくらいか、結衣ちゃんのキックも届かないし、当然しぃちゃんのパンチも当らない。どちらかが、相手に近付かなければ決着は付かないのだが、相手の攻撃を警戒しているのだろう。互いに動かない。
そのまま五分が経過し、私と真耶は朝ご飯を食べ終えてしまった。私が食後のお茶に口をつけた瞬間にしぃちゃんが間合いを詰めてきた。
自分の間合いに入ったと思った結衣ちゃんがしぃちゃんのわき腹に向かって右のミドルキックを放つ。キックにも構わずしぃちゃんの体が素早く結衣ちゃんへと動く。
「そこまでっ!」
背後からお母さんの叫び声が聞こえる。その声を聞いてしぃちゃんと結衣ちゃんの動きが止まった。
しぃちゃんを狙った結衣ちゃんの右足は、いつの間にか右に曲がって私のほうを向いている。
しぃちゃんはと言えば、結衣ちゃんの懐深くに入っていて左のボディーパンチが軽く結衣ちゃんの服に触れるか触れないかの辺りでその動きを止めた。
「朝ご飯の時間に喧嘩なんかしない! もう勝負はついたんだからそこまでにしなさい」
お母さんはそう言って台所へと消えた。結衣ちゃんはがっくりと肩を落とす。
「おばさんの言うとおり、私の負けだわ……」
「まだまだ精進が足りないわよ。結衣」
しぃちゃんは結衣ちゃんから離れると、居間に戻るために一人玄関へと向かった。結衣ちゃんは暫く俯いていたが、頬を二回思いっきり両手で叩くと、しぃちゃんの後を追った。
「ところで、一体何が起こったの……」
しぃちゃんが勝ったらしいのは分かったが、その前にしぃちゃんに向けられた結衣ちゃんの右のミドルはどうなったのだろう。
「お姉ちゃん、見えてなかったの? 結衣ちゃんの蹴りを椎名先輩が肘で弾いて左のボディを一発撃ちにいったのよ」
私にはしぃちゃんと結衣ちゃんの動きが早すぎて見えなかったのに、真耶は全て見えていたらしい。
「一発じゃなくて正確には二発ね」
再びお母さんの声。お母さんにも見えていたというのか。
「しぃちゃんのあの構え、右腕にも力を溜めていたわね。左のボディを当てた後で、右ボディとワンツーパンチを当てるつもりだったのよ」
ボクシングの試合を何度も見た私が見えていないのに、この二人はどうしてここまで見えているのだろう。
「真耶と、お母さんってさあ……、格闘技の試合とか見ているの?」
「いや、全然見ていないわよ」
二人は同時に答える。
ひょっとしたら目が細い人は物事が良く見えるのかもしれない。居間に戻ってご飯を食べるのを再開するしぃちゃんと結衣ちゃんを見ながら私はそんなことを思った。
それにしてもしぃちゃんと結衣ちゃんってすごい姉妹だな。