第二話 かわちゃん
「あらあら、真知ちゃん。どうしたの一体?」
しぃちゃんが私の家のチャイムを押すと、中からものすごく目の細い女の人が出てきた。これが私のお母さん、御徒理沙だ。
「実はですね……」
しぃちゃんが事情を話す。お母さんは驚いている様子だが目が開かれることは無い。(本人は思いっきり開いているつもりなんだろうけど)
「まあ、トラックに? それは大変ね。とりあえず横にさせないと」
そう言いながらお母さんは私たちを居間へと通し、素早い動きで居間に布団を二つ敷く。
「さあ、ここに真知ちゃんと女の子を寝かせて」
「はい」としいちゃんは私を背負ったまま腰を下ろす。その時、私の腰が居間の端へと追いやられていたちゃぶ台にぶつかった。
「痛いっ!」
痛さで思わず目から涙が滲み出てしまう。
「ああ、ごめんかっちゃん。痛かった?」
私は立ち上がってしぃちゃんをちょっと睨む。
「痛かったよー、しぃちゃん。もう少し後に気をつけてよー」
それを聞いたしぃちゃんは謝るどころか逆に可愛らしく微笑んだ。
「よかった、その様子だと腰が元に戻ったようだね」
しぃちゃんに言われて私は腰を手で触りながら足を上げ下げしてみる。本当だ、抜けた腰が元に戻った。
「ありがとう、しぃちゃんのおかげだよ」
「どういたしまして、かっちゃん」
私としぃちゃんがおかしなやり取りをしている間に女の子はすでに布団に横になり、額には濡れタオルを乗せられていた。お母さんの姿は見当たらない。店に戻ったのだろうか。(私の家は和菓子屋を営んでいるのだ)
「ん……」
女の子の口元がかすかに動く。気がついた、と私が思う間もなく女の子は少々釣り目がちな目をパッチリ開け、上体を勢いよく起こした。
「ここは……」
辺りを見回す女の子にはるちゃんが事情を説明する。
「そうだった、私トラックに轢かれそうになって……、それで……あなたが助けてくれたんですか? 本当にありがとうございます」
と、はるちゃんの手を固く握り締めた。
「いやいや、助けたのは私じゃなくて、かっちゃんだから」
はるちゃんは女の子の両手を私の胸元へと移動させた。
「かっちゃんさん、ありがとうございます」
女の子は私の手をとって礼儀正しく頭を下げる。
「気絶したときはどうしようかと思ったけど、怪我が無くて本当によかったよ。ところであなたの名前は?」
私が尋ねると女の子は目を閉じてしばらく考え込んだ顔をしていたが、意を決したのか目を見開くと大きく叫んだ。
「私の名前は河原真値です!」
「河原町!!」
私とはるちゃんはほぼ同時に驚きの声を上げた。しぃちゃんは不思議そうな顔で両側の私たちを見つめる。
河原町とは、京都の河原町通りを中心とした繁華街のことである。京都の地名を東京に住む私とはるちゃんがなぜ知っているのかといえば、昨年MHKで放送された大時代劇ドラマ「桂小五郎」のせいである。主人公の桂小五郎が京都の河原町で新撰組や幕府の役人と追いかけっこをしている様子がテレビで全国のお茶の間に流れたのだ。この番組の年間平均視聴率は三十パーセントを越えたらしい。
「あー、やっぱり河原町っていったー!」
女の子――河原真値――は、私とはるちゃんの膝を思いっきり叩いた。釣り上がり気味の目じりが一層釣り上がる。
「『まち』は『なんとか町』のまちじゃなくて、真実の『真』に値段の『値』と書いて『真値』なんです!」
真実の「真」に値段の「値」か……。私としぃちゃんと同じく彼女が生まれる直前になにかご家族に事件でもあったのだろうか。聞いてみたいが人の古傷を触るのはあまりよくないことだ。
ちなみに私としぃちゃんのことを話せば、私が生まれる直前に、お祖父ちゃんがしぃちゃんのお父さんの信じる怪しい宗教に勧誘されそうになり大騒ぎになったのだ。
幸いお祖父ちゃんはその宗教に入らず、しぃちゃんのお父さんはこの事件を機に怪しい宗教をやめる。そして二人はその事件の反省の意味を込めて生まれてくる子供に自分の願いを込めた名前をつけた。私が「真実を知る」で「真知」、しぃちゃんが「真実の智恵」で「真智」。
私が昔のことに思いを馳せている間にも、真値さんは私とはるちゃんの膝に爪を立て左右に動かす。
「滋賀にいたころは友達からよく『河原町』、『河原町』とからかわれ続けていたんです。この春東京に出ることでやっと『河原町』から解放されるかと思っていたのに……。あのテレビ局!!」
真値さんの爪はちょっと尖っている。二人ともズボンを履いているからいいけど、素足だったらちょっと痛そうだぞ。
「まあまあ落ち着いて、この春東京に来たってことはどこかの学校に入学したの?」
唯一爪を立てられていないしぃちゃんが真値さんの両手を優しく取って彼女の手元へ戻す。
「そうなんです、私はこの春から大学生なんです。みなさんに文京大学って知っていますか? 私はその文京大学の文学部学生になるんです」
文京大学文学部の生徒……。私たちの後輩ではないか。
「えーっ、嘘―っ! 文京大学!? 私たちの後輩じゃない、一浪していないよね?」
はるちゃんが感激の声が上げた。現役で入学したのならば、年は私たちの一つ下となる。
「一生懸命勉強したので、現役合格です。今年の夏、十九になります」
それを聞いたはるちゃんは真値ちゃん(年下だってことが分かったら「ちゃん」づけなのだ)に抱きついて髪を激しく撫でた。
「やったー、後輩だー。妹分だー!」
真値ちゃんは戸惑いの色を見せながらも健気に応える。
「よろしくお願いします、先輩!」
その様子を眺めていたしぃちゃんが私に耳打ちをした。
「はるちゃんのあの抱きつきって、やっぱり明石先輩の影響なのかな……」
明石先輩とは、はるちゃんが所属しているダンスサークルの先輩、明石真奈美さんのことである(なんでもこの春部長になったらしい)。女子高生が好きで可愛い女子高生を見ると思わず抱きついてしまうのだ。
「同じサークルの先輩後輩だから、影響受けたんだろうね」
微笑ましく見守る私としぃちゃんに気づいたはるちゃんは恥ずかしがることなく逆に私たちを責めた。
「ほら、二人とも何をぼーっと見ているのよ。可愛い後輩が出来たのよ。喜びなさいよ」
いや、喜んでいるんだけどね、はるちゃん。
「そんな可愛い後輩、河原真値ちゃんに質問です」
はるちゃんが真値ちゃんを撫でていた右手を勢い良く上げる。私たちのリアクションは無視なの? はるちゃん。
「ええと……なんでしょう、先輩」
「なんで真値ちゃんは『真値』と言う名前がつけられたの? 何か深い理由でもあったりして?」
「もーう、はるちゃん」
しぃちゃんが立ちひざの姿勢になってはるちゃんを咎める。先ほど私が同じ事を聞こうとしてやめた理由、「人の古傷を触るのは良くない」をしぃちゃんも考えていたようだ。
「しぃちゃん。ポジティブでしょ。ポジティブ」
はるちゃんはそう言ってしぃちゃんをなだめる。「辛い過去もポジティブに生きろ」という意味を略している。
しぃちゃんが落ち着いたところで真値ちゃんは、はるちゃんの問いに迷うことなく答えた。
「なんでも私が生まれる直前にお父さんが株で失敗したらしくて……。それで私に『真実の価値』という意味で『真値』となったそうです」
やはり事件は起こっていたか。と、私は真値ちゃんに気づかれないようにため息をついた。
「ありがとう、真値ちゃん。ポジティブよ、ポジティブ」
「ええ、ありがとうございます……。先輩」
はるちゃんの「ポジティブ」の本当の意味が分からない真値ちゃんは戸惑いながらも頷いた。そんな真値ちゃんにしぃちゃんが一つの提案をした。
「ところで、真値ちゃん。せっかく知り合ったんだし、もっと仲良くなるためにあだ名を決めようか。滋賀ではなんて呼ばれていたの?」
それを聞いた真値ちゃんは一瞬、目じりを一層釣り上げたが、すぐにもとの位置に戻して答えた。
「滋賀ではずっと『河原町』とかわらかられていたんですけど、そうじゃない友達からは『かわちゃん』と呼ばれていました」
「『かわちゃん』か、いいね、今日からあなたは『かわちゃん』だよ」
「ありがとうございます、先輩」
真値ちゃん――かわちゃん――は、しぃちゃんに向かって礼儀正しく頭を下げた。両手をきちんと畳につけている。
「そう言えば……、私まだ先輩達の名前聞いていませんでしたね」
頭を上げたかわちゃんが私たちを見回す。うーん、来たかこの瞬間が。別に昔と違って自分の名前嫌いなわけじゃないけど、未だ身構えてしまう部分がある。
「それじゃあはるちゃんから、どうぞ」
私がはるちゃんの膝を叩くと、はるちゃんは嬉しそうに私を見た。
「かっちゃんが、トリを勤めるのかー」
うん、そうだよ。トリだよ。でも決して笑いを狙っているわけじゃないからね。
はるちゃんとしぃちゃんが順番に名前を名乗る。かわちゃんの反応は至って普通だ。はるちゃんの名前は普通だからともかく、しぃちゃんのときの反応を見るに、「椎名町」は滋賀生まれであるかわちゃんは知らないようだ。
そして、ついに私の番である。視界の端ではるちゃんとしぃちゃんが口の端をやや上に上げているのが見える。「御徒町」という山手線の駅名と同じ名前を持つ私の名前を聞いて彼女がどういう反応をするか、さらにそれを見て私がどう反応するか楽しみなのだろう。
かつてしぃちゃんが私の名前である「御徒真知」と聞いて「御徒町だ!」と言う反応をしなかったと言う前例がある。かわちゃんが「御徒町」と言う駅があることを知らない可能性もある。
まあ「御徒町」と言われたらそのときだ、嫌がらず明るく答えようと私は、さらりとじ口を開いた。
「私の名前は御徒真知だよ」
それを聞いたかわちゃんは大きく開け、その口を両手で隠した後でこう叫んだ。
「御徒町―! 山手線だー!!」
「やっぱりそう来るか!!」
これが私たちの可愛い後輩である「かわちゃん」こと「河原真値」との出会いであった。