第二十三話 キスして桜島
「じゃあ次は私が歌う!」
はるちゃんは手を伸ばして明石先輩からマイクを取った。流れてきたのは去年はるちゃんと出会ったばかりのときに彼女が踊っていた曲だ。
右手でマイクを持ち、左手を滑らかに動かす。私の頭の中に、華麗にこの曲で踊っていたはるちゃんの姿――背後に華麗な揚羽蝶が見える――が浮かんだ。
「遙はこの歌に限らず、この人の曲ならなんでも歌えるんだから」
明石先輩がウーロン茶の入ったストローを口にしながら私に話しかける。
歌い終わったはるちゃんの表情は、踊りを終えたときのように清々しいものだった。
「いいねー遙、輝いているよー。そのうちもっともっと輝けるようになるよー」
「ありがとうございます!」
はるちゃんは礼儀正しく明石先輩に頭を下げながらマイクを彼女に渡した。
「さて、そろそろ主役が歌いますか……?」
明石先輩がマイクを私の膝の上に置いた。
「え……? 私ですか」
「かっちゃんまだ歌っていないじゃない」
かわちゃんが私を見ながらメロンソーダの上に載っているアイスクリームを食べる。
「うーん、今までの流れから考えると普通の歌で恐縮なんですが……」
と、私はコードを入力して曲が流れるのを待つ。
エレクトーンの音が部屋の中に響く。
「あー、これ私が次歌おうと思っていたのにー」
ラブラブな歌専門(?)のかわちゃんがスプーンを片手にブーイングをする。
「ごめんねー、これ私も歌いたかったから」
そして私は将来彼氏にするであろう「愛してるのサイン」を何にするか考えながら、歌うのであった。
「かっちゃんは『愛してるのサイン』の相手はもういるのー?」
私からマイクを取りながら明石先輩がいつもの笑顔で尋ねる。
「いやー、残念ながらまだいませんよー」
この名前だからって彼氏なんて出来るわけが無い、とは少しも思っていない。だけど今は彼氏を探すより友達と遊んでいたい。
「えーと、次は私の番だねー」
明石先輩がリモコンの「スタート」ボタンを押すと曲が流れ始めた。曲に合わせて明石先輩がリズムを取り始める。歌詞が表示されるや否や、彼女は目を瞑って歌い始めた。歌詞を見ないで歌えるなんてかなり数をこなしているのだろう。
明るい笑顔で「キスして!」と叫ぶ明石先輩。そんな彼女の顔を見ているとつい私は顔を近づけたくなる……って危ない危ない。
明石先輩は最後の歌詞を歌いきると、すぐに演奏を取り消してマイクを置いた。いつもの笑顔がさらに活きのよいものになっている。まるで風呂上りにコーヒー牛乳を飲んで幸せなき分を味わっている人のようだ。
「明石先輩は今まで何回キスしたのですか?」
かわちゃんが明石先輩を見て大胆な質問をする。あれだけサビの部分に「キスして!」が入っていたので、気になったのだろう。
明石先輩は先ほどの表情を変えることなく首をちょっと傾げる。
「うーん、キスにもいろいろ種類があるじゃない、どこにするかとか……。例えば頬とか唇とか額とかあるじゃない?」
「そりゃあさっき明石先輩が歌っていた歌の中にあった『唇』に決まっているじゃないですか」
「唇かぁ……」
そう言いながら明石先輩は左手の人差し指を自分の下唇に当てて目を瞑った。今まで唇にキスした回数を数えているのだろうか?
「人にキスの回数を聞くときは、自分から言うのが礼儀と言うものでしょう!」
はるちゃんがかわちゃんを右手で鋭く指差した。かわちゃんの質問の姿勢に意義があるようだ。ちなみにはるちゃんは今までキスはおろか恋をしたことすら無い。
「な、なんでそんな展開になるのよ!」
かわちゃんが顔を真っ赤にさせてテーブルを叩く。メロンソーダがちょっぴりコップの中から飛び出した。
「もーう、かわちゃん。テーブル強く叩きすぎだよ……」
しぃちゃんがティッシュでこぼれたメロンソーダをふき取る。どうやら自分のウーロン茶もこぼれてしまったようだ。
「明石先輩にそんな恐ろしい質問をすること自体がおかしいんですよ」
亜由美ははるちゃんの側につく。恐ろしい質問って……、亜由美はこの質問の答えを知っているのだろうか。
明石先輩の目がやっと開かれた。彼女は笑顔を消してかわちゃんを暫くじっと見るめる。
「ど、どうしたんですか……。一体……」
明石先輩の真剣な眼差しにかわちゃんはたじろぐ。
「女の子も数に入れるか入れないかでかなり回数が変わっちゃうんだけど」
さらりと恐ろしいことを言うと、明石先輩はいつもの笑顔に戻った。「女の子も数に入れる」って、女の子にもキス(しかも唇に!)しているのか。私たちも近い将来唇を奪われるのだろうか。
「はい、誰も入れないなら次の曲行くわよー」
浅野先輩が空気を変えようとリモコンを片手にコードを打ち込んだ。次の曲は私たちのご先祖様の恩人である、西郷さん――西郷隆盛――の故郷の山をテーマにした歌のようだ。
「ところで、はるちゃんは明石先輩にキスされたことはあるの?」
しぃちゃんが明石先輩に聞こえないようにしぃちゃんに尋ねる。はるちゃんが亜由美をちらりと見て答える。
「私はまだ頬にキスどまりだけど、亜由美は何度も唇にキスをされたことがあるよ」
いずれは私にもキスを迫るのか――。と、浅野先輩の歌に合いの手を入れる明石先輩をみて微妙な気持ちになった。明石先輩は優しいお姉さんでいいんだけど、女性だからね……。抱き付かれるのは慣れたけど、キスをするのはちょっと嫌だな。
「よーし、最後は遙、いつものあれを歌いなさいよ」
浅野先輩がマイクをはるちゃんに渡す。
「えー、あれですか? しぃちゃんやかっちゃんには分かるかな……」
と、はるちゃんは遠慮がちに私たちを見る。
「サークルでカラオケやるときにいつも歌うじゃない、さあ曲を流すわよ。」
「分かりました、はるかいきまーす」
はるちゃんの歌は最初はゆっくりしたものだった。どうやら歌詞の人はドブネズミのようになりたいらしい。ドブネズミって汚いだけで美しいとは思えないのだけど……。
そのうちはるちゃんは絶叫し、マイク片手に勢いよくジャンプをし始めた。気が付いたら浅野先輩も明石先輩も亜由美もサビの一言を叫んで飛び跳ねている。亜由美に至っては顔の前に両腕でバツ印を掲げている。
「ほらかっちゃんもしぃちゃんも次サビの部分が来たら一緒にジャンプするのよ」
明石先輩が私の手を取り引っ張る。
「とりあえず叫んで飛べばいいんですか?」
しぃちゃんも私と一緒に立ち上がる。
「そう、とにかく叫んで飛ぶ。ほら、もう来た」
なんだか訳が分からぬまま私としぃちゃんはサビの一言を叫びながら飛び続けた。飛んでいるうちになんだか激しい楽しさ体中から湧き上がってくる。
「ね、こうして歌いながら飛んでいると嫌なこともスッキリするでしょ」
浅野先輩が笑顔で飛びながら私たちにもうひとつあったマイクを向けた。
カラオケも終わり私たち六人はとんかつ屋の「豚殿念」へと向かう。先客はいるものの、こ混雑していなかったため、待ち時間無しで六人全員が一つのテーブルに座ることが出来た。
隣のテーブルにはタカビーと姉小路会長が向かい合ってお茶を飲んでいる。お茶しかないのを見ると、店に入ったのは私たちとあまり差は無いみたい。
「あれー、会長とタカビーもとんかつですかー」
はるちゃんが楽しそうな表情で、二人から一番近い席に座った。
「ああ、高見から最近の文化祭の状況を聞いていたんだ。自治会の会長として文化祭の進捗は聞いておくべきことだからな」
「へー、そうなんですかー」
私ははるちゃんの向かい側に座る。
「時にかっちゃんよ、最近何かとストレスを感じているらしいが一体どうしたと言うのだ?」
タカビーの呼びかけがきっかけとなり、私はイライラはすっかり収まったものの、事後報告としてとんかつを食べながら今までしぃちゃんやイラケン選手に愚痴っていた内容を話した。
「みんなもっと頑張ってほしいよ!」
私の話の締めくくりのセリフを聞き、それまで「うんうん」と頷いて聞いていたタカビーの目が一瞬釣りあがったような気がした。
「はー、とんかつ美味しかったー。みんなほんとに私はお金払わなくていいの?」
「いいんですよ、今日はかっちゃんのストレス解消の日なんですから」
亜由美が小銭を財布の中に入れてチャックを閉める。
「今日は私のためにこういうことしてくれてありがとうございました」
私は周りのみんな一人ひとりに頭を下げる。
「こういう雰囲気の中で言うのもなんなんだが……」
と、店から出てきたタカビーが口を挟んだ。
「やい、御徒真知よ」
「そういう呼び方は反則だって言っているでしょ」
私はタカビーを睨む。しかし、タカビーのほうがもっと鋭く私を睨んでいた。
「さっき『みんな頑張って』って言っていたよな……」
「ええ、言ったわよ。『みんなもっと頑張ってほしい』って……」
「お前はそう言えるほど頑張っているのか?」
タカビーの質問に私はムキになって答える。
「頑張っているわよ! この前だって全く寝ていないのに面接したし、ミスコンの企画だったて私としぃちゃんと亜由美で考えたんだし!」
「お前が何をやろうが関係ない。それよりもなぜお前が『みんな頑張って』と言ったのか俺にはそれが理解できない」
店の看板が時折点滅する。その光に照らされるタカビーの顔と口調はいつもの穏やかなものと違い厳しいものになっていた。