第一話 弥生の町を歩く
「三寒四温」と言うけれど……、「一寒五温」が本当ではないの? と、思うくらい暖かい日が続く三月の谷中の町を私は友達二人と一緒に歩いている。
私の名前は御徒真知。文京大学文学部一年生。自分の名前が山手線にある駅名と同じなため、小さい頃よりからかわれ続けていた。このため自分の名前に強いコンプレックスを持っていたのだけど、去年の秋の出来事をきっかけになんとか克服した……、と思っている。うん、克服した。
身長は百六十一センチメートル。髪は肩までの長さ。特技は「はったり」。友達からは「かっちゃん」と呼ばれている。
私の前を歩いている友達は椎名真智。私と同じ文京大学文学部一年生。西武池袋線にある駅名と同じだが、幸いにして名前についてからかわれたことはないらしい。これは彼女の実家が東京じゃなくて山形なのが大きいと思う。
身長は百五十センチメートル。髪は胸くらいまでの長さ。すごく可愛らしい外見だけど、実は格闘技(特にボクシング)が好きで、彼女は毎日体を鍛えている。酒に酔うとものすごく怖い、本当に怖い。私たちは「しぃちゃん」と呼んでいる。
さらにその前を歩いている友達は伊井国遥。同じ文京大学文学部一年生。ダンスサークルに所属している。去年の夏、自分の将来についてお父さんと喧嘩したけど仲直りした。自慢しなくていいことを自信たっぷりに宣言するという困った癖がある。
身長は百七十二センチメートル。髪型はうなじまでの長さのショートヘアー。酒に酔うとたちが悪くなる。私たちは「はるちゃん」と呼んでいる。
私たちと違い普通の名前だけど、大学教授であるお父さんの名前は伊井国造郎と言う。
「相変わらず人が多いねー。この通りは」
はるちゃんが道行く人をよけながら呟く。私たちが歩いている谷中銀座は、商店街なのだが、その道幅は車が互いに通り過ぎるのがやっとの広さしかない。そのうえ道には看板とかテーブルなどが置かれているからさらに狭く感じられる。
「ここはこの辺りに住んでいる人がお買い物に来るからねー」
しぃちゃんがはるちゃんの後ろをとことこと着いていく。はるちゃんが道を作ってくれているので、後ろの私たちは楽なものだ。
突然、はるちゃんが立ち止まったので、しぃちゃんははるちゃんの背中に頭をぶつけた。
「しぃちゃん、大丈夫!?」
私はしぃちゃんのおでこを優しく撫でる。
「もーう、はるちゃんどうして止まるのー?」
「お腹が空いた……」
はるちゃんの視線の先にはできたて熱々の揚げ物をケースの中一杯に並べたお肉屋さんがあった。
「コロッケが食べたい……」
気がつけばはるちゃんはコロッケを買おうとする人の列の一番後ろに並んでいた。
「はるちゃーん、私たちの分もお願いねー」
ちょうど私も小腹が空いていたので、はるちゃんに声をかけると、はるちゃんは小さく右手を上げて応えた。
「さて、私たちはその間にコーヒーでも飲んでいますか」
「私はお腹空いていないよー」
「えー、一緒に食べようよー」
文句を言うしぃちゃんを宥めて私は路上に白いテーブルと椅子が二組置かれただけの喫茶店へと彼女を引っ張る。
注文をしてから三分もしないでキンキンに冷えたアイスコーヒーが二つ、私たちの目の前に置かれた。暖かいというより暑いと感じる今日にちょうどいい。
「はい、しぃちゃん。アイスコーヒーだよ」
と、私はしぃちゃんの分のストローを彼女のコーヒーの中へと挿した。
「うん、ありがとー」
そう言うとしぃちゃんは可愛い笑顔でストローを口にした。口に入れたコーヒーを二三回噛んで飲み込む。お腹を冷やして壊さないためらしい。牛乳を噛んで飲むのと同じ理由だ。
「うちの店と同じくらい美味しいかな……」
しぃちゃんはこの谷中銀座から歩いて五分くらいのところにある喫茶店、「御団子」でアルバイトをしているのだ。
「しぃちゃんは御団子がよっぽど好きなのね」
「そりゃそうだよ、自分が働いているお店だもん」
「買ってきたよー」
はるちゃんがビニール袋に入ったコロッケを私たちの前に差し出した。白い袋に触れると、出来立てのコロッケの熱が手に伝わるのを感じる。
「私が一番先に食べる!」
私はそう叫んで袋の中からコロッケを一つ取り出した。食べると塩気の利いたじゃがいもの柔らかい感触が口の中に広がる。この味と感触がたまらない。
「やっぱりこの町のコロッケは美味しいわ」
「あー、ずるいかっちゃんだけ先に食べてー」
私の手にあるコロッケを美味しそうに眺めるしぃちゃん。さっきまでお腹は減っていないと言っていたのに。その様子を眺めていたはるちゃんが袋からコロッケを取り出してしぃちゃんの左の手のひらに置く。うん? よく見るとコロッケではないぞ。
「そんなしぃちゃんには、はい。鳥の竜田揚げ。今日だけの限定品なんだって」
「うわーい、ありがとう! はるちゃん」
喜びながら鳥の竜田揚げを頬張るしぃちゃん。
「鳥の肉汁が口の中に染み出て美味しいー!」
「いえいえ、どういたしまして」
と笑顔で答えるはるちゃんが袋の中から取り出したのはまたしても鳥の竜田揚げ――。
「はるちゃん……。私の分は?」
私はコロッケを持っていない左手の人差し指を口の下に当てて甘えるポーズをはるちゃんに見せた。はるちゃんは袋をさかさまにして上下に降った。袋の中からは茶色い揚げカスがパラパラとこぼれるのみだった。
「見ての通りもう売り切れよ」
はるちゃんが意地の悪い笑みを私に見せながら鳥の竜田揚げに
「う、うっ……ずるいよ二人とも……」
私は泣く泣く通常メニューのコロッケを口の中に押し込んだ。じゃがいもの塩気がいつもよりも多く感じられるのは決して涙のせいではない。そう信じたい。
町の名物を堪能した私たちは不忍通りへと出た。上野の不忍池へ至るこの道は、私の家の前に面した道でもある。
「もうすぐ私たち二年生になるねー」
通りをうるさい音と排気ガスを出しながら流れる車を横目にはるちゃんが呟く。
「大学生活の一年間なんてあっと言う間だったね」
先頭をゆっくりと歩くしぃちゃんが振り向く。
「あっと言う間だったけど、いろんな事があった一年間だったねー」
私は二人の後ろを歩きながら大学入学からこれまでのことを思い出していた。十年ぶりに着物姿になった入学式、しぃちゃんとの出会い、はるちゃんとの出会い、三人で一緒に見たボクシングの世界戦、そして――。
「かっちゃん、信号もうすぐ赤になるよー」
後ろのほうでしぃちゃんの声がして私は我に帰った。気がつけば私は交差点の横断歩道を半分ほど渡っていた。目の前の信号はすでに赤になっている。
(まずいな、しぃちゃんたちのところへ戻ろうか……)
そう思って向きを変えた私の隣で一人の女の子が――信号が変わるので急いでいたのだろう――思いっきり転んだ。
「大丈夫ですか」
私は女の子に手を差し伸べた。しぃちゃんと同じくらいの髪の長さで少々釣り目がちなその女の子は私の手を掴み
「あ……、どうもありがとうございます……」
と、ゆっくりと立ち上がろうとした。その時、歩道にいるしぃちゃんから悲鳴が飛び出した。
「かっちゃん、危ない!」
何かが近付く気配を感じたので、その方向を見ると、大きな緑のトラックが私たちに向かって来ている。車の信号は青だからこっちへ来るのは当然か、と納得している場合ではない。
「私は死なない! 好きな人はいないけど、私は死なない!」
私はそう絶叫すると、女の子を左脇に抱えて急いでしぃちゃんとはるちゃんの待つ歩道へと走った。間一髪、私の背後でトラックが急ブレーキの音を上げながら通り過ぎる。
「かっちゃん、大丈夫!?」
しぃちゃんが私の右腕を激しく掴む。
「うん、大丈夫だよ。ほら」
そう言いながら私は足元を見る。今立っているところが歩道であることを確認した瞬間、私の体は女の子を抱えたまま腰から崩れ落ちた。とっさに右手でしぃちゃんの腰の辺りを掴む。
「しぃちゃーん、死ぬかと思った。死ぬかと思ったー」
「火事場の馬鹿力」とはまさにさっきのことだったのだろう。もう一度あんなことをやれと言われても絶対にできない。
「かっちゃん、道路では死なない、って叫んでいたのに……」
冷静に突っ込みを入れながらはるちゃんは女の子の肩を叩いた。
「おーい、もう大丈夫だよー」
女の子の反応は無い。私の腕の中でぐったりとしている。
「トラックに驚いて気絶しちゃったみたいね」
そう言いながらはるちゃんは女の子を揺らす。やっぱり反応は無い。トラックが自分に突っ込んでくると知ったらそりゃあ驚くだろうな、やっぱり。
「私の家この交差点を渡ってすぐだから、うちへ運ぼう」
「気絶している女の子と腰を抜かしているかっちゃんをどうやってかっちゃんの家まで運ぶの?」
しぃちゃんに言われて私ははっ、となった。腰に力が入らない。動けないのは私も同じであった。私は申し訳なさそうにしぃちゃんとはるちゃんを見た。
「……二人で頑張って私たちを運んで……」
「もーう、やっぱりそう来ると思ったー」
文句を言いながらしぃちゃんは私を背負った。さすがボクシング好き、普段から体を鍛えていることはある。
「はるちゃんは女の子のほうお願いね」
「うん分かった」
ダンスで体を鍛えているはるちゃんは軽々と女の子を背負った。
「よかった……この子軽いや」
私はしぃちゃんの肩に顎を乗せた。しぃちゃんの荒い息遣いが感じられる。
「しぃちゃん……ごめんね、ありがとう……」
「かっちゃん話しかけないで、気が散るから」
よろめきながらもしぃちゃんは私を背負い歩き続ける。
しぃちゃんの頭越しに穏やかな春の光を浴びた私の住む町が見えた。