第十四話 突撃!隣の文化祭(四)
「結局一時間も映画見ていたね」
時刻は午後三時半を回ったところ、まだ私たちは東都大学の薄い黄色の校舎に居る。その二階にある映画研究会の教室を出た私はタカビーを見上げる。
「ぬるいギャグ作品と、真面目な作品が交互に上映されているのがなんとも……。絶妙な組み合わせと言うか……」
そんな組み合わせにはまってしまった私たちは、ついつい計四本の作品を見ることになってしまったのだ。
「次はどこへ行くの? 行き先はタカビーに任せるけど」
「とりあえず、まだこの建物にはいようと思うけど……」
タカビーがパンフレットを広げて階段を見る。そしてそのまま階段を上った。私はタカビーの後を追う。
三階へ上ると白衣を着た男子大生が私たちを見るなり声をかけた。
「『人間科学研究会』です。体力測定をしていきませんか? 難しい機械を使わずに測定できますよー」
「体力測定か……まぐろで鍛えた俺の力を見せてやるよ」
タカビーは意気高々に扉に手をかける。しかし私の知り合いにはしぃちゃんや、イラケン選手など体力に自信のある人たちが多いからな。そんじょそこらの力じゃ驚きはしない。
タカビーが扉を開けた瞬間、頭の横を何かが通り過ぎた。その直後後ろから何かが大きく弾んだ音が響く。
「何……?」
後ろを向くと、何かボール状のものが転がっていた。その上下には白いゴムひものようなものがついている。
「ボー、ボールか?」
そう呟くタカビーの顔を見て私は息を飲んだ。タカビーの頬に一本の血の線が走っている。
「大変、タカビー血が出ているよ」
私は財布からバンソウコを取り出して、タカビーに渡す。
「血……、さっきのか?」
どうやら本人は傷ついたことに気づいていなかったようだ。
「どうしてー、どうしてあんなに飛ぶのー?」
部屋の中から聞き覚えのある声が、もしや……。
「やっぱりしぃちゃんだー」
中にいたのはしぃちゃんと亜由美だった。彼女達の前を白いゴムひものようなものが垂れ下がっている。部屋の外に転がっているボールについているものと同じだ。
「あ、かっちゃんだ。ボールがそっちへ飛んでいったけど、大丈夫だった」
しぃちゃんが私に駆け寄り、私の足元まで転がっていたボールを拾う。
「いや、私は大丈夫なんだけど、タカビーがね」
「直撃していたら洒落にならなかったかもしれないな」
タカビーは既にバンソウコを貼りおえていた。
「え、タカビー怪我? 大丈夫?」
しぃちゃんが背を一生懸命伸ばして、タカビーのバンソウコをさわる。
「まあほんのかすり傷だから大丈夫だよ」
「そう、それならいいけど……」
私はしぃちゃんが手にしている、ボールを軽く叩く。
「ところでこのボールは何なの?」
「ああ、これはね」
「パンチ力測定に使うボールです。殴ったときのゴムの伸びた長さでパンチ力を測るんですって」
しぃちゃんに代わって亜由美が部屋の中から答える。
「測定だから、思いっきり力を込めたら壊れちゃったみたい」
「みたい、じゃないですよ。この後測定できないじゃないですか。ほんとにすいません」
亜由美が部員一人ひとりに頭を下げる。部員さんは「い、いえ……」と苦笑する。まさか女性に壊されるとは思ってもいなかっただろう。
そもそも体力測定用の器具を壊すなんて、しぃちゃんのパンチ力はどれだけのものなんだ。
「ほ、他のところ行こうか、タカビー」
「そ、そうだな。ここは二人がすでに見ていることだし」
しぃちゃんの力のすごさを見せ付けられて、タカビーは先ほどの意気込みを殺がれてしまったようだ。
薄い黄色の校舎を出たときには時刻は四時の手前であった。
「あの向かいの建物にも入ってないや」
タカビーが指差す先はこの大学には珍しい鉄筋コンクリート製の建物だった。
「あの建物は新しそうね」
目の前の通りを行きかう人を避けながらコンクリートの建物の中に入る。
中は先ほどの建物と違い、差す光が太陽からそのまま届いたかのようなまぶしさを受ける。
「茨城県サークルです。茨城の名産品が食べられまーす。アンコウせんべい、梅干、納豆ー」
納豆と聞いた私は素早くその部屋の前を通り過ぎた。
「おい、かあちゃん待てよ」
タカビーが私の後を追いかける。鉄道部の部室の前で私はタカビーに追いつかれた。
「どうした、いきなり早歩きなんて」
「別に、ちょっと歩きたかっただけよ」
「ふうん」とタカビーは私の顔と茨城県サークルの看板を交互に興味深そうに見る。
「梅干が嫌いなのか」
「梅干は嫌いじゃないわよ」
かと言って好きでもないが。タカビーは私の右足を見て指差した。
「かあちゃん、納豆踏んでる」
「え、納豆? くさっー! いやっー!」
私は右足を上げて壁につけると、上下に激しくこすり付ける。納豆なんて大嫌い!
「いや、それは嘘なんだけどな」
「嘘ー?」
私は目を細めてタカビーのほうを見る。タカビーはしてやったり、とにやにや笑っている。
「納豆が嫌いなんだな」
私は壁につけていた右足をそのままタカビーに向ける。ジーンズをはいているので、パンツが見られる心配はしなくてよい。
「蹴るぞー」
「冗談だって、そんなに怒るなって……。あ」
笑顔で私の足を掴んだタカビーだったが、私の靴底を見て小さく声を上げる。
「どうしたの、タカビー」
「いや、ほんとになんか踏んでいると思ってな……。……ちょっと臭うぞ」
ちょっと臭うって本当に私は納豆を踏んでしまったのではないか?
「タカビー、靴洗ってー!」
私は靴を脱いでタカビーに差し出す。
「なんで俺がお前の靴を洗わなきゃいけないのだよ。自分で洗えばいいだろ」
こうして私は泣く泣く女子トイレで靴底を洗うことになってしまった。でも全然納豆臭くなかったけどな、嘘だったら本当にタカビーを蹴ってやろうか。
靴底をティッシュで丁寧に拭いた私は靴を履いて、トイレを出る。
「おーい、御徒町」
私の姿を見るやタカビーが笑顔で私を呼ぶ。
「その呼び方はルール違反だって言ったでしょ」
私はタカビーを睨みつける。
「まあそう睨むなって、御徒町駅を発見したのだ」
「は、御徒町駅?」
「まあ来れば分かるって」
タカビーは私の腕を取ると、「鉄道研究会」と看板のある部屋へと引っ張った。
ほんとだ、御徒町駅だ。
私の下を緑色のラインを引いた山手線の模型電車が走る。それは上野駅を発車し、数秒後には御徒町駅に到着する。私はその中間で座っているのだ。
「この模型よくできているだろう」
「ほんと、よくぞここまで、と感心しちゃうよ」
上野駅や御徒町駅だけではなく、駒込駅や五反田駅など、山手線に属する全ての駅が一つの教室に小さいながらも再現されている。
「どうした、御徒町駅に会えて嬉しいのか?」
タカビーが私の右隣にしゃがんで御徒町駅をなでる。
「嬉しいってわけじゃないけど……」
正直簡単には説明することはできない。ただ確かなことは「御徒町駅」と聞いても、もう嫌な気持ちにならないことだろう。私がこうして「御徒町駅」の模型を見ているのは、自分の名前をもっと好きになるために「御徒町駅」に関わっていきたいということだろうか。
山手線が私の前を通り過ぎていく。
「はい、ちょっとどいてください」
鉄道研究会の人だろうか、私の前にあるレールの横にもう一本レールをつけていく。レールは御徒町駅の前を通過し、上野駅を経て田端駅までつなぐ。
やがて田端駅から青いラインを引いた電車が走り出した。うわぁ、京浜東北線だ。
やがけ京浜東北線の電車は、御徒町駅に停車する。それと同時に山手線の電車が御徒町駅のホームに入る。この模型、本当によくできているなぁ。
「おい、かあちゃん」
「なあに、タカビー?」
私は勢いよくタカビーのほうを振り向く。タカビーは私の顔を見ると、ぽんぽんと私の頭を叩いた。
「顔がにやけているぞ」
私は自分の頬を両手で包んでみる。だいぶ緩んでいる。やはり私は御徒町駅のことが……。
「お前は鉄道がそんなに好きなのか?」
「違うわよ、私は別に鉄道が好きじゃないわよ」
地下鉄の通風孔から聞こえてくる電車の通過音で楽しんだり、ビルとビルとの間からちらっと一瞬見える電車の姿に興奮したりなんてしてないわよ。
「それじゃあなんでそんなに喜んでいるんだ?」
「そ、それは……」
御徒町駅のことが好きだからかな? でもそうだもしてもそんなこと言えるわけがないじゃない、恥ずかしい。
「もう、どうでもいいでしょそんなこと。次の部屋行くわよ!」
私は立ち上がって鉄道研究会の部屋を出た。
「おーい、待てよかあちゃん」
タカビーの声が後ろから聞こえるが、私は気にせずどんどん歩きついには建物の外へ出てしまった。
時間は四時半を過ぎた頃、一日目の仕入れ分が無くなったせいか早くも店を閉めている屋台がちらほら見える。
「一日目の終わりまであと一時間半か……」
タカビーが追いついたのを確認して私は彼に聞こえるように呟いた。
「そうだな、あとぐるっと一回りしたら終わりだろうな」
「そういえば、私気になるのが一つあるんだった。ベートベン作曲『運命』の演奏。クラッシック音楽が無料で聞けるんだって」
私が目を輝かせてタカビーのほうを見ると、タカビーはパンフレットを開いてページをめくり……。そして叫んだ。
「おい、演奏開始まであと五分しかないぞ!」
「え、嘘! それじゃあ急がないと」
行きかう人の流れを交わしながら、私たちは演奏会場へと急いだ。