第十話 谷中の将軍、再び
亜由美が実行委員会に入ってから一週間が経った。メンバーはどんどん増え始め、会長が言った最低ラインの四十人を突破した。
五月に入り生活スタイルが確定したので、空いている時間を使って文化祭を作ろうと思った学生が増えたのだ、とのタカビーの分析。
メンバーの募集まだまだ続けるが、文化祭作りも本格スタートと言うことで、四十数人の実行委員を役割ごとに三つのグループに分けることになった。
一つ目は文化祭のパンフレットを作成する出版グループ。けーまが代表を務める。
二つ目は文化祭を学内や周辺地域にアピールし、文化祭当日は雑務(ゴミ捨てとか案内とか)を行う総務・広報グループ。これには仕切り好きのかわちゃんが代表。
最後は文化祭の企画を作りや大学のサークルの出店などを管理するイベントグループ。私としぃちゃんが代表です。
「これより、『東京とともに六十年』文京大学文化祭第一回イベントミーティングを開催します」
二十人の学生達の前で私は高らかと今年の文化祭のテーマを告げた。大学創立は明治二十年代だが、文化祭は始まってから今年で六十年だ。
そして翌日――。
「芸人さんは大丈夫として、この人は本当に呼べるのー?」
かわちゃんが怪訝そうな顔を私たちに向ける。
昨日私たちイベントグループは最初の議題として、文化祭の目玉として大学に来てもらう有名人を話し合い、お笑いコンビ一組とスポーツ選手一人を呼ぶことに決定した。
「現役のスポーツ選手が文化祭に来るなんてあまり聞いたことが無いな」
タカビーがその人の写真を片手に口をへの字に曲げる。
「どうしてこの人たちを呼ぶことに決まったの?」
けーまの問いにしぃちゃんは答える。
「三人ともこの大学とご近所にゆかりのある人たちだよ。今回のテーマに相応しい人だと思うんだけど……」
話の途中で扉を開かれる音が文化祭室の中に響いた。亜由美が中の様子を気にせず私のいる部屋の奥まで靴の音を立てて入ってくる。
「アポイントが取れました。今日、この後ジムに来ても大丈夫だということです」
「えっ、今日会えるって!? しぃちゃん、亜由美早速行くよ!」
話の途中であるが、ジムに行くほうが優先だ。私はしぃちゃんと亜由美の手をとって廊下へと歩き出す。
「ジムということは、スポーツ選手のほうか……。いい結果を期待しているぜ」
タカビーの声に私は満面の笑顔で答えた。
「絶対大丈夫だから。みんな期待して待っていて」
なぜこんな自信満々の発言をするかって? それは今から会うスポーツ選手は私の知り合いだからよ!
「……半分冗談だと思っていたけど、本当に来たか」
「はい、予告どおり本当に来てしまいました」
「鯉ヶ崎ボクシングジム」と、書かれた黄色いTシャツと赤いハーフパンツに身を包んだ、町田イラケン選手が困った表情を浮かべているのを私は明るい笑顔で見つめる。大学の文化祭に呼ぶことが決まったスポーツ選手とは、ボクシング世界ミドル級チャンピオン、町田イラケン選手のことだったのだ。彼はかつて文京大学に所属していたわけではないが、ジムの合宿のときはうちの大学の施設を使っているので、そういう意味では大学に縁のある人物である。
イラケン選手とは知り合ってから約一年の中である。去年の秋、しぃちゃんとはるちゃんの三人でリングの側で見た。チャウワ・スケベニンゲンとの試合は記憶に新しい。
イラケン選手はその名前がある大物時代劇俳優に似ていることから「ボクシング界の将軍」と呼ばれている。昔はその名前にコンプレックスを感じていたが、時代劇俳優と対面してからは自分の名前に誇りを持てるようになっている。
「事前から出演交渉をしていたのですか……?」
「もーう、かっちゃん一人でずるい、そういう話は私も居るときにしてよー」
「あはは、しぃちゃんごめん」
イラケン選手と私は時々朝に近くの谷中霊園で会っている。決してデートをしているわけではない。イラケン選手と私はそんな仲ではない。イラケン選手はジムへの通勤(?)のため、私はおばあちゃんの代理として飼い犬であるペルの散歩のため谷中霊園を利用しているのだ。
その時私はイラケン選手に文化祭の話をした、そしてつい勢いで
「イラケン選手に文化祭で試合をやってもらいますからね」
と言ってしまったのだ。
イラケン選手も
「それまでチャンピオンでいられるように頑張る」
と、快諾してくれた。二人とも冗談半分で言い交わしたそのやりとりが、今こうして現実のものになろうとしている。頭の中にはイラケン選手が私達の大学で試合をしている姿さえイメージしている。
「いや申し訳ないのだけど、大学で試合はできないな」
頭の中で風船のように膨らんでいたイメージが音を立てて崩れ粉となってしまった。ちなみにその粉にはアスベストは混じっていません。
「どうして、試合が出来ないんですか。ボクシング協会の許可が下りないのですか?」
頭の中を舞う粉を振り払いながらも私はイラケン選手に食い下がる。
「かっちゃん、普通に考えて大学の体育館で世界戦をやるにはちょっと無理があるよ。チケット管理や観客席の設置、選手の控え室とケア、報道陣への対応……と、文化祭どころじゃなくなっちゃうよ」
「理由はほとんど椎名さんに言われてしまったな……」
ううっ、味方であるはずのしぃちゃんにとどめをさされてしまうとは……。
「そんなぁ、試合ができないんだったらイラケン選手を文化祭に呼ぶ意味が……ひゃあっ!」
突然何者かにお尻を触られ、私はまぬけな声を上げる。
「いきなりどうしたの? かっちゃん」
隣にいるしぃちゃんが少し慌てたような声を上げる。
「イラケン選手を文化祭に呼ぶことを提案したあなたが身も蓋もなくなってしまうようなことを言わないで下さい」
背後から亜由美の冷ややかな、そして低くて小さな声が聞こえる。
「え……、と試合ができないのなら、イラケン選手にどのような形で大学に来てもらうか今から考えようかな……。と……」
「大丈夫よ、かっちゃん。私がいくつか考えてきたから」
しぃちゃんはカバンの中からプリントを四枚取り出し、私たちに一枚ずつ渡す。
「へえ、それじゃあ椎名さんの意見を伺おうかな。まあ応接室が空いているからそこで座って話そう」
そういえばずっとリングの側で立ち話だったもんな。今の時間はイラケン選手と私たちしかいないけど、練習場で文化祭の話をし続けるのはあまりよいことではないだろう。
「えっ、ほんとですか! イラケン選手に私の意見を聞いてもらえるなんて幸せです」
しぃちゃんの顔だけではなく周りの空気までもが幸せそうな雰囲気に包まれる。イラケン選手と知り合って一年経っているのに、しぃちゃんのイラケン選手への接し方は憧れのアイドルに出会えたような新鮮な感動がまだ残っている。
そのためかしぃちゃんとイラケン選手の間にはまだ一定の距離があるような気がする。
そんなことを考えながら私たちはイラケン選手の案内で応接室へと通された。三人がけの黒い革のソファーが二つ、木目があざやかなテーブルを挟んで向かい合うように置かれている。練習場の汗臭いスポーツマンの雰囲気とは違い、スーツ姿の男性のような部屋の様子に私は少し体が固くなるのを感じた。
「さあ、そこに座って」
部屋の中央にあるソファーに、奥のほうから亜由美、しぃちゃん私の順で座る。
「……なるほど、一つ目はトークショー。二つ目はボクシング部を交えてのボクシング教室、そして三つ目は……」
イラケン選手が楽しそうな顔を浮かべてしぃちゃんが渡したプリントを眺める。
「三つ目は腹打木久蔵選手と公開スパーリング……?」
腹打木久蔵選手とは、イラケン選手の事務の後輩で、日本ミドル級の現チャンピオンである。ボディーブローを得意とし、実家はラーメン屋さんとのこと。
「しぃちゃん、試合は無理があるって自分で言ったじゃない」
「スパーリングは試合じゃなくて練習だから、大丈夫かと……」
しぃちゃんの頭の中にもボクシングをするイラケン選手の姿があったようだ。
「そんなに長いラウンドじゃなければ自分としては大丈夫だよ。」
えっ、 今大丈夫だって言った!?
「ほんとですか、イラケン選手! ありがとうございます!!」
しぃちゃんと私は立ち上がり何度も頭を下げる。本当にイラケン選手がうちの大学に来るんだ!
「二人ともやったね、イラケン選手が文化祭に来てくれるよ」
ジムを出て三崎坂を下りながら、私はしぃちゃんと亜由美に笑顔を向けた。
「ほんとだね、来てもらえるかどうか予想がつかなかったからドキドキしたよ。あー、イラケン選手のボクシング姿がうちの大学で見られるんだー」
しぃちゃんは再び幸せな雰囲気を周りに振りまく。
「喜ぶのはまだ早いですよ」
後ろを歩く亜由美が落ち着いた声で私達の喜びに水を差した。
「これから出演料の交渉をしないといけないし……、内容をしっかりつめないと、参加してらった選手達に失礼なことになってしまいます」
「亜由美は嬉しくないのー?」
いつもの淡々とした口調の亜由美のほうを振り向いて私は少し文句を言った。
「嬉しいですよ。でも三人全員が喜びに浸るのはちょっと危ないかなー、と……」
私としぃちゃんとはるちゃんの三人だったらもう大喜びで、道行く人など気にしないくらいの勢いなんだろうな。
「いやー、そうなのかもしれないけど、もうちょっと喜ぼうよ……」
「ほら御徒さん、前危ない」
亜由美に促されるように前を向くと、目の前の小道に入ろうとする車が!
「えっ……うひゃあっ!」
私は後ろから誰かに抱きすくめられてそし横倒しになる。車はそんな私達を気にせずに小道へと入っていった。あのまま歩いていたらきっと車にぶつかっていただろうと思うと背筋に冷たいものが走る。
「かっちゃん、亜由美大丈夫!?」
しぃちゃんが慌てて私達の前にしゃがみ込む。しぃちゃんが目の前にいるということは、私を抱きしめているのはやはり亜由美か。
「あ、うん。大丈夫だよ。亜由美のおかげで事故に遭わずにすんだよ。ありがとう」
「だから三人喜んでいたら危ないといったじゃないですか……」
そう言いながら亜由美は私から離れ上体を起こす。私を見つめる眠そうな目と、口元のほくろが……セクシー。
「……なんだか私が御徒さんを襲っているみたいですね」
くすりともせずに亜由美が淡々とした口調でとんでもないことを言う。まあ彼女にとってはこれが普通なんだろう、と私はそれに乗っかって
「いやん、恥ずかしい!」
顔を両手で覆い恥じらいの姿勢を見せる。
「もーう、二人とも通りでそんなこと言い合うなんて私が恥ずかしいよ……」
しぃちゃんが頬を少し赤く染めながら両手を私たちに差し出す。しぃちゃんの力を借りて私たちは立ち上がり、服についた砂や埃を払い落とす。
「ところで、亜由美。かっちゃんを倒しちゃったのは勢いで、それともわざと?」
「いや、最初は倒す気はなかったのですが、御徒さんの抱き心地がよかったので、つい……」
「つい……、って襲う気あったんじゃん」
私は半ば呆れながら亜由美を見る。
「私が悪くはないのです。これもみんな明石先輩の……」
「なんでも明石先輩のせいにしない!」