彼と少女の最高の夜
人々に忘れ去られた旧道は、この日深い雪に覆われていた。
そんな寂しい道の最中で、彼は前方をふらふらと歩く毛皮の塊を見つけた。
随分と豪勢な毛皮のコートを羽織った、背丈からして女だろう。
彼はまた、飲み過ぎた女が道を間違えでもしたのかと思い、しょうがねえなぁと面倒くさそうに呟いて、その横に付けた。
ところが、毛皮のコートを羽織っていたのは赤ら顔の女ではなく、まだあどけなさの残る少女だった。
「おい、嬢ちゃん。こんなところで、どうした?」
あまりに似つかわしくない少女の格好に面食らって、彼は思わずそう問いかけた。
すると、少女は最初、ぎょっとしたような顔をして彼を見た。
よくよく見れば、少女の身を包んでいるもので温かそうなのは、その不相応な毛皮のコートだけ。
コートの下は、くたびれた薄いセーターと、色あせたジーンズ生地のホットパンツという出立ちだ。
革のブーツは膝まであるが、随分ボロボロでとても温かそうには見えないし、何より剥き出しの太腿がとてつもなく寒々しい。
ズっと啜った鼻は赤く、ブロンドの長い髪からのぞく耳たぶなどは、すでに霜焼けを起こしたかのように真っ赤だった。
「こんな雪の中をそんな格好で……随分寒かろう?」
彼は気遣わしげにそう問うた。
しかし、少女はちらりとブルーの瞳で彼を一瞥しただけで、何も答えない。
歩みを止めようともしなかった。
そもそも、少女が一人きりで歩くような道ではない。
人が滅多に通らないこんな場所で行き倒れては、誰も気づいてはくれないだろう。
縁もゆかりもない少女ではあるが、今宵のような日に命を落とされては彼だって夢見が悪い。
それに、女子供を見捨てるなんて、男が廃るというものだ。
彼は足を止める様子のない少女にため息をつくと、再び声をかけた。
「なあ、嬢ちゃん。悪いことは言わねえ、乗りな」
すると、少女はまたちらりと彼に視線をやった。
胡散臭そうな顔をして、彼の上から下までじろじろと眺める。
そして、ズズッと大きく鼻を啜ってから、ようやく口を開いた。
「……なによ、あんた」
随分と生意気な口のきき方ではあったが、声はか細く震えていた。
きっと、寒くて寒くて仕方がないのだろう。
それを我慢して強がってみせる少女が、彼はとても可哀想になった。
さらに、白い息を吐き出す小さな口の端が、赤黒く変色している。
よくよく見れば、左の頬も少し腫れているではないか。
明らかに、何者かによって殴られた痕だった。
「おい、どうした? それ、誰にやられたんだ?」
彼は思わず、そう問いつめるように言った。
少女は、彼の口から吐き出された真っ白い息を一瞬不思議そうに眺め、それからふうとため息をついた。
サクサクサクと、雪を踏みしめる音がする。
忘れ去られた古い道の脇には枯れた木々が立っているだけで、民家もない。
明かりと言えば、雲間に薄らと顔を覗かせる月の光くらいのものだ。
そんな道を、少女はまだ一人行こうとしている。
「あたし、これからおばあちゃん家に行くんだ。おばあちゃんと一緒に住むの」
少女は独り言のように、ぽつりとそう言った。
祖母の家は、この旧道のずっと先にあるらしい。
ただし、この先には大きな山が立ちはだかり、民家のありそうな所といったら、その山を越えた向こう側。まだ猶に数十キロの距離がある。
「馬鹿言うんじゃねぇよ、嬢ちゃん。このままだと、朝になっても着きゃしねえ」
彼が呆れたようにそう言って、もう一度乗るように勧めたが、少女は足を止めようとしない。
仕方なく、彼は少女の横に付いたままゆっくりと進む。
少女は彼に聞かせるともなしに、ぽつりぽつりと話を続けた。
「前からね、おばあちゃんはおいでって言ってくれてたんだ。でもあたし、ママを一人にしたくなかったから……」
少女には、どうやら父親がいないらしい。
若くして未婚のまま自分を生んだ母親と二人、都会の片隅で生活してきたようだ。
しかし、その母親が近々結婚することになった。
とたんに母親は少女を邪魔者扱いし始め、自身の腹に婚約者の子が宿っていることが判明すると、それはより顕著になった。
生まれた時からずっと貧しく、満足に食事を与えられないこともあったし、玩具なども買ってもらったこともない。
それでも、少女は母親を愛していたから、側を離れたくはなかった。
どんなに邪険にされても、罵倒されても、母親と一緒に暮らしたかった。
「でも……あいつは大嫌い」
少女が傷ついた唇を噛み締めて、憎々しげに「あいつ」と言ったのは、母親の婚約者のことだった。
婚約者は母親の留守を見計らって家を訪ねてきたかと思ったら、あろうことか少女に乱暴をはたらこうとしたのだ。
母親の再婚相手が娘を……なんていうのは、胸くその悪い話ではあるがさして珍しくもない。
それを聞いた彼は「なんてこったい……」と呟いて天を仰いだ。
「あんなくそ野郎でも、ママはあいつが好きなんだって。やっと、私は一緒に居ない方がいいって、分かったんだ」
「その顔の傷は、そいつに殴られたのか?」
少女はまた、彼の口から吐き出される白い息を不思議そうに見た。
そして、それが夜の闇に溶けて消えるのを見届けると、ふっと表情を和らげて言った。
「テーブルにあったタバスコ、顔面にぶっかけてやったら、ひーひー言ってた」
「ほう、勇ましいじゃねぇか」
「あと、思いっきり蹴り上げてやったから、あいつ、タマが潰れちゃったかもね」
「おいおい、女の子がタマなんて言っちゃいけねぇ」
少女は吹っ切れたような顔をして続ける。
「ついでに、あいつの胸ポケットからサイフすってやった。カード全部使い切ってやるんだ。ざまあみろ」
「おう、そいつは聞かなかったことにしておこうか」
「餞別がわりに、ママの一張羅のコート、パクってきてやったし」
「まあ、それくらいは許されるだろうな」
少女ははあと、一際大きくため息をついた。
白い息は束の間宙を漂い、しかしすぐに闇に溶けた。
しんしんと、雪はまだまだ降り続いている。
少女のブロンドの頭にも、羽織っている毛皮のコートにも、それは白く積もり始めていた。
くたびれたブーツが雪を踏みしめる音も、だんだんと緩慢になってきた。
「なあ」
彼はたまらず、また少女に声をかけた。
「乗れよ、嬢ちゃん」
答えは、すぐにはなかった。
しかし、少女はどこか眠そうな顔をして彼を見ると、今度は小さく首を傾げて言った。
「……あんた、乗せてくれるの?」
「おうよ、さっきからそう言ってるじゃねぇか」
「乗ったことないなぁ、乗れるかなぁ。落ちないかな……」
「バカ言え。俺ほど安全で快適なもんはねえぞ」
少女はふうっとまた白い息を吐くと、かじかんだ指先を彼へと伸ばした。
その指先が、ふさっと柔らかく温かいものに埋もれる。
「あんた、あったかいんだね……」
少女はそう言うと、身を屈めて寄り添った彼の背に、よいしょっとよじ登った。
彼は、四本足で雪を踏みしめていた。
「それにしても、どうしてこんな所にヘラジカがいるんだろ」
「おい、待て。あんな間抜け面の連中と一緒にするな」
「あ、ヘラジカじゃなくて……もしかして、トナカイかな」
「そうとも、間違えてくれるなよ」
彼の言葉は少女には分からなかった。
だって彼は人間ではない。
立派な角を持つトナカイなのだ。
分厚い体毛と、雪の上でも沈むことなく歩ける大きな蹄で、こんな雪の日だってへっちゃらだ。
ただし、彼には手綱もなければ鞍もない。
少女は仕方なく、彼の太い首にぎゅっとしがみついた。
そこは少しばかり獣臭くはあったが、少女が羽織ってきた毛皮のコートなんかより、もっとずっと温かかった。
「あんた……あったかいねぇ……」
少女はくふふと笑ってそう言うと、彼の毛皮に頬を擦り寄せた。
そうして、首を傾げて空を見上げ、ふっと白い息を吐いて呟いた。
「そう言えば、今夜ってイヴだったっけ……」
少女の言う通り、今宵はクリスマスイヴだった。
トナカイの引くソリに乗ったサンタクロースが家々を巡り、よい子にプレゼントを配る日だ。
しかし、少女は寂しそうにぽつりと言った。
「うちには、サンタが来てくれたことなんてないけど……」
「なんだって!?」
その言葉に、彼は愕然とした。
彼は、サンタクロースのソリを引く役目を与えられたトナカイだった。
これまで、何十年もの間、子供達の笑顔のためにソリを引いてきた。
しかし、彼の相棒だった白髭の紳士はもう随分と老齢だったため、去年のイヴを最後に引退してしまった。
――やっと、ワイフと一緒にイヴを過ごすことができる。
そう微笑んで、長年連れ添った老婦人のしわくちゃの頬にキスをする相棒を見てしまっては、引き止めることなどできようか。
おかげで彼は今年からフリーの身となったのだが、老齢なのは相棒だけではなかった。
年老いた彼を新しく引き手として迎え入れてくれるソリは現れなかった。
だから彼は旅に出た。
万年雪とフィヨルドに覆われた故郷を出て、世界中を周り、自分にソリを引かせてくれるパートナーを探した。
ところが、このイヴの夜になっても願いは叶わず、彼はひどくがっかりしていた。
そんな時だった。
彼が少女を見つけたのは。
「あたし、いい子にしてたつもりだったんだけどなぁ……何がいけなかったのかなぁ……」
そう呟く少女の声が寂しそうで、彼の胸はひどく痛んだ。
それとともに、ふつふつと激しい怒りがこみ上げてきた。
「なんてこったい! この国のサンタクロースはなんて怠慢なんだ! プレゼントをもらいっぱぐれる子供がいるだなんて、信じられない!」
彼は憤慨し、落胆し、そして悲しみを覚えた。
全ての国が、全ての子供の幸せを守れるとは限らない。
全ての子供が平等に愛される世界から来た彼には、それが分からなかった。
そして、その背中に乗った少女にも、彼の胸を苛む様々な感情が分からなかった。
ただし、少女は彼の毛皮に頬を埋めて、とても幸せそうだった。
「ああ、あったかい……」
目一杯腕を伸ばして彼の太い首筋に抱き着き、その温もりに身体だけではなく心も委ね、少女は微笑んだ。
「サンタなんて、もう来てくれなくてもいいや。プレゼントなんて、いらない。だって、あたしはトナカイに乗れたんだもの」
少女がそんなことを言ってくれたものだから、とたんに彼の背筋がしゃんと伸びた。
怒りも、侘しさも、悲しみも、全部彼の頭から雪と一緒にふるい落とされた。
かわりに、彼の大きな蹄はしっかりと雪を踏みしめる。
「じじいのソリを引っ張るより、よっぽど楽しいじゃねえか」
彼は生き生きとした声でそう呟くと、ザクザクと音を立てて白い道を力強く進み始めた。
やがて、少女が彼の首筋に顔を埋めたまま、すうすうと寝息を立て始める。
すると、彼は少女を落とさぬように注意を払いながら、さっと空へと駆け上がった。