鶴亀ヘルズプレリュード(上)
えー、どうも。
途中参入させて頂きました、担当者の兎です。
本題突入前にサイドストーリーという形で、今パートを入れて頂きました。
少し長めの話となってしまったので、少し区切って投稿していきたいと思います。
得てして、遅刻を悪い事と捉えていない人物がやたら早い時間から学校にいる時は、何かあったと思って間違いない。
亀沢小雪は、目前で文字通り机の上に“垂れている”親友の姿を見下ろしていた。もう少し正確に言えば、机に突っ伏した親友の頭頂部を見下ろしていた事になる。
時計を見れば、ホームルームまではあと四十分もある。小雪自身は夜型というより朝型の人間なので、こうして早朝に学校に来ては予習や読書などに時間を費やすことにしているのだが、この目前の親友はその手の人間ではない。筋金入りの「夜型人間」、のはずである。
「深雪ちゃん、おはよう」
試しに声をかけてみると、
「……おは」
帰ってきたのはぶつ切りの弱々しい挨拶。振りあげた右手が、力無く卓上に垂れた。
「どうしたの? 具合でも悪いの?」
あまりの弱々しい声に、どうしたものかと小雪が心配して声をかけると、親友、深雪の顔がのっそりとこちらに向いた。
「夜勤明けで、寝てないの」
「え?」
「同情するなら寝かせて」
「え、あ、うん、……って、違うよ。まだ夜勤のアルバイト続けてるの? もう、身体壊しても知らないからね?」
分かった分かった、と深雪は虫を払うように手を振り、再び机と顔を──キスでもするんじゃないかってくらい──近づけたのであった。
「あ、こゆきぃ?」
「うん? なあに?」
「ティーちゃんには内緒ね」
「はいはい」
深雪の言う“ティーちゃん”とは、別に特定人物を指しているわけではない。教師を意味する英単語“ティーチャー”を、角を丸めてあだ名らしくした、所謂隠語である。
気がつくと、小雪はため息をついていた。彼女がこの唯一無二の親友の為に嘆息を漏らすのは決して珍しいことではない。
鶴丸深雪、それが深雪のフルネームである。
これが亀沢小雪にとって唯一無二の親友の名前だというのだから、よく話のネタにされるのも自然な経緯というものだ。
片や「亀沢小雪」、もう片や「鶴丸深雪」、何とも面白いくらい対になった名前だが、別段そう言った相対性を狙って名前を付けられたわけではない。事実、小学校に入学するまで二人は赤の他人であった。
だがクラスに、自分と同じ「雪」という文字を名前に持つ子がいれば意識するのは当然である。増して「鶴」と「亀」が対になる概念であると判明すれば尚更だ。
小雪も最初は「私と似た名前の人がいるんだな」と思ったし、深雪だって「何だろう、あいつ。あたしの偽物か何か?」と訝しんでいた。
しかもいざ話をしてみたら、面白いくらいに趣味も好みもてんでバラバラ。性格だって小雪は生真面目な優等生、深雪は奔放な問題児。2人の間に共通する事があるとすれば、恐らくは性別と年齢、それに名前の雰囲気だけだったであろう。
ところが、奈何せん名前の呪縛からは逃れられない。両者とも、否でも応でも互いの事を意識してしまう時があった。周りも面白がり、この何もかも違う2人をペアとして見るようになった。
急展開が訪れたのはこの直後。あまりの接点が無いことから互いに接触を避けていた2人だが、半ば周囲からの圧力により無理やりくっつけられてみると、感性が全く違う相手というのも悪くはない。いや、おおいに結構!
いつしか2人は、「名前はこんなに似てるのに、なんでこんなにも違うんだろうね」と笑いながら互いに足りない物を補い合える(何もかも正反対という事は、2人とも苦手な物などなかったという事である!)大切なパートナーとなっていたのである。
中学二年生の夏、学校行事の一環で行われた「集団登山」で、足を捻挫して動けなくなった小雪を背負い、引率の教師の所へ送り届けた深雪。
中学三年生の冬、受験寸前なのに全く勉学に熱が入らず、手持ち無沙汰にだらだら過ごしていた深雪に勉強を教え、彼女を明国院入試合格に導いた小雪。
片方がいなかったら、もしかしたらもう片方も今ここにいなかったかもしれない。それくらい2人は強い親交で結ばれているのである。
片や小柄であどけなさの残る風貌を持つ小雪、片や長身で切れ長の釣り目が売りの美貌を持つ深雪。
片や模範的優等生として教師からの評価も高い小雪、片や規則に無頓着なことから生徒指導の教師に目の敵にされている深雪。
片や試験の結果は毎回上位群に属するが体育だけはどうも苦手な小雪、片や運動部でもないのに中々の運動センスを持つが学業の成績はいつも散々たる深雪。
初めて顔を合わせてから十年以上の月日が経つのに、未だこんなにバラバラで、だからこそこんなに愉快痛快波乱万丈。それがこの「鶴亀コンビ」のセールスポイントであろう。
だが、いくら仲が良いとは言え、やはり何かと正反対な2人。些細なすれ違いや価値観の交通事故は日常茶飯事であり、数えていればきりがない。
小雪とてあまり目くじらを立てたくはないが、深雪が規則を軽んじる行動を取った末には、どうしてもムッとしてしまう。「親友だから見逃せない」という考えもある。
ちょうど規則には従順な小雪とは対照的に、深雪は社会的規則を軽んじる一面がある。遅刻や服装検査違反などで何度教師から注意を受けているか、とても数え切れない。
そればかりではない。本来なら夜勤のアルバイトだって、法改正により16歳以上なら深夜労働が認められるようになったが、あくまにそれは国が認めただけで、明国院高校の校則はアルバイトそのものを認めていない。
「学業に支障が出るから、やるならせめて長期休み中だけにしろ」と小雪は注意しているのだが、つい最近まで春休みだった事もあり、深雪は惰性で今も夜勤のアルバイトを続けているらしい。
挙句の果てに、喫煙だ。これも成年・未成年の定義が変わったことで、喫煙が認められる年齢も18歳まで引き下げられた。ところが深雪は、未だ17歳の癖にすっかり紫煙の虜になっているのだ。流石の小雪もこればかりは見逃せず、口を酸っぱくして「煙草だけはやめろ」と言っているのだが、深雪もこれだけは頑なに「絶対、嫌だ」と首を縦に振らない。
「こんな調子でよくもまあ友人関係など保持していられるな」と周囲が呆れることも稀ではないが、実際そんな調子で友人関係が続いていることは今日の彼女たちを見れば火を見るより明らかであろう。
さて、その「今日の彼女たち」に話を戻す。
クラスを見渡すと小雪、深雪を除けばほんの数人ほど人がおらず、昼間の騒々しさとは無縁の、澄んだ静寂な空気が流れている。
粗方は小雪と同じく早朝登校を心がけている生徒ばかりで、ほとんど馴染みの面子である。この顔ぶれだと深雪が浮いて見えるが、よくよく見ればクラスの男子生徒、物部良治の鞄が卓上に放り投げられている。
彼についてはクラスが同じになってまだ数日のため、あまり詳しい事を知っているわけではないが、ここまで極端に早く登校する人物ではなかったはずなので、やはり珍しいと言えば珍しい。
はて、今日は何かあったかな、と小雪は腕を組んで頭を捻ったが、土曜日につき午前授業で終わる事を除いては目立って何らかの行事があるという情報はなかったはずである。
偶然かな、きっとそうだね、偶然だね。
ひとり合点した小雪は自分の席に腰を下ろした。これまた偶然なのだが、ちょうど深雪の隣である。
「ねー、こゆきー」
書店で買った小説を鞄から取り出した瞬間、深雪が頭を傾けながら、小雪に声をかけた。
「今日の英文法、どこだっけ?」
「えっと、チャプター1の15ページから」
「さんきゅ」
必要な事だけ聞き終わると、深雪は再び机に伏した。
「あの、深雪ちゃん、今日こそは予習やってきたよね?」
「愚問よ。後で見せてね」
やってないのである。
「もう。またやってこなかったの?」
「小雪がやってくるから、ま、全然いいかなって」
「全然良くない! まったくもう、今日という今日こそは見せてあげないからね。自分で何とかしてね!」
と小雪、ついには業を煮やし、手持ちの小説に視線を落としてしまった。すると
「こゆきー、確かさぁ、英文法って3限目だよね?」
「うん。まだ時間あるから、今から予習すれば間に合うよ」
「じゃあ、あたし、3限目に頭痛くなるから、よろしく」
その言葉に小雪の眉が釣り上がる。
「あ、ずるい!」
「それじゃ、一緒に頭痛起こす? あたしは一向に構わないわよ?」
深雪は不敵ににやりと笑った。とても今から人の予習ノートを見せてもらう人間がする顔とは思えない!
「そういう意味じゃなくて、授業受けたくないからって嘘ついて保健室に行く事がずるいって言ってるの!」
「バレるわけないでしょ。ま、嘘くさいと思われそうなら、生理痛とでも言っておけば──」
「深雪ちゃん!」
小雪が真っ赤になって憤慨した。腹が立ったというのもあるが、それ以上に、初心とでも言うべきか、要はその手の猥談が苦手なのである。
無論、親友である深雪がその事実を知らないはずがないのだが、裏を返せば「弱点をすべて知り尽くしている」という事でもある。冗談半分にからかいながら、揺さぶりをかけているのだ。
こうもペースを崩されては小雪も立つ瀬がない。結局、今日もまた、小雪が折れる形で鶴亀紛争は幕を下ろす事になった。どうにも深雪の強かさには敵いそうもない。
「もう、次こそはきちんとやってきてね!」
「さんきゅ。後で写させてもらうわ」
勝利の笑みを隠すことなくノートを受け取った深雪は、それを机にしまうと、
「だから、ティーちゃんが来るまで寝せてね」
と物の見事に再就寝。
己の思うがままに行動する様はまるで猫のよう。そう言えば聞こえは良いが、振り回される小雪はいつだって大変なのだ。
──それから時間が流れること数十分。
教室内の空席にもぽつぽつとクラスメートが座り始め、仲の良い生徒同士で世間話コロニーが形成されていく。やがて予鈴が鳴り始め、
「皆、おはよう」
と担任の教師が──深雪の言葉を借りて言えば「ティーちゃん」が──教室の戸を開けた。
「深雪ちゃん、先生来たよ」
席を立って話に花を咲かせていた生徒たちが、少し残念そうな顔を浮かべて自分の席に戻る中、小雪が深雪の肩を叩く。しかし、
「……追い返しといて」
返ってきたのは酷い無茶ぶりだった。
そんな事言われても、と小雪は困ってしまう。だから夜勤のアルバイトはやめろって言ったのに!
すると、そこへ
「ッタッチィィィダァウゥゥゥン!!」
春眠暁にタッチダウン。グッドモーニング、ヘイルメリー。試合終了のチャイムが教室に満ちる。
「遅れましてすみません! セーフですかッ!」
見知らぬフットボーラーの叫び声に、深雪は快眠世界より引きずりだされた。
何の騒ぎだと寝ぼけ眼で見渡せば、教室の入り口に見知らぬ男子が転がっている。──何アレ、新手のフットボーラー?
「すみません、クラス間違えました……」
その言葉に“ティーちゃん”の顔に青筋が一斉直立。一方、隣を見れば小雪も苦笑している。
「待たんかい!」
追われるように教室を後にしたフットボーラー。その結末について、深雪の視線はさほど興味を示さなかった。
元より社会規則には疎い彼女である、遅刻することが悪い事など露ほども思っていない。自分の教室間違えるほど切羽詰まるくらいなら堂々と遅刻した方が楽なのに、と唇が笑う。
「……えー、改めて、おはようございます」
咳払い1つ挟んで、“ティーちゃん”がやんわり語りだす。と同時に、壁1枚挟んで向こうのクラスの“ティーちゃん”が怒鳴りだした。
──同情するわ、フットボーラー。次から間に合わないと思ったら正々堂々と遅刻するのよ。
「皆、学校には余裕をもって登校するように」
その言葉に教室が笑う。──良かったじゃん、フットボーラー。あんた、コメディアンの素質あるらしいわよ。
そうそう忘れてた、と深雪、机からノートを取り出し、英文法の予習を眺めはじめた。流石は小雪、丁寧な仕事ぶりである。感心感心。
“ティーちゃん”の演説はまだ続いているようだが、深雪の脳がそれらを拒む。今はとっとと予習内容の確認に励みたいのだ、事務連絡のヒアリングなら小雪に任せておけば良い。
──いきなり飛ばすわね、チャプター1。あたしの英語力は中学生止まりだって御存じですか? それともあたしの御意向は無視ですか? そうですか。ま、いいけどね、分かんなくても死にはしないし。
几帳面な字体のアルファベットが「こんなんも分かんないのかよ」とせせら笑う。──おい、低偏差値女、バッカじゃねえの? 俺達の小雪ちゃんはこんなの朝飯前だとさ。
「では皆、今日は半日しかないが、真面目に授業に取り組むように」
気が付くと、“ティーちゃん”が吐いた締めの言葉が脳裏に引っかかっていた。どうやらお話は終わった模様。
「ちょっと、小雪?」
「うん?」
「やっぱあたし、今日、頭痛起こすわ」
「えぇっ!?」
「予習見たけどさっぱり分からないし、何か急にだるくなってきたし」
「分かんないって、どこが分かんなかったの?」
その質問に、深雪は
「愚問ね」
と笑って、
「全部よ」
小雪は愕然とした。
土曜日の授業は午前中で終焉を告げる。よって午後は様々な部活動が一週間で最も活性化するのである。
いつも通り全授業を真面目に受け終えた小雪と、紆余曲折の末に渋々ながら授業を受けさせられた深雪、2人もまたそれぞれ属している部活動の活動場所に向かう。
小雪に関して述べれば、「放送部の亀沢さん」として校内でもそこそこの認知度を誇っている。
部活動乱立地帯としても名高い明国院高校において、制度上は男女両方入部可能でありながら実際は男子しかいない部活動は結構多く存在している。
往年の放送部もまたその1つに含まれ、歴代の放送部員は「カノジョがいる男は部員にあらず」と(女子から人気のある男子への嫉妬と羨望から)禁欲的スタンスを仲間内に強制してきた。
しかし設立以来初めて女子が、すなわち亀沢小雪が入部した事で、昨日まで「モテない男たち同盟」だった仲間が一転して恋敵へと大変身を果たすという急展開を迎える。
純心かつ生真面目な努力家で愛想も良い小雪が、部内の女子とは無縁であった男子陣に淡い夢を抱かせるのには、1日もあれば充分であったのは、想像に難くない。
互いに「リア充になるのは俺だ!」と牽制しあい、水面下での陰惨な冷戦が繰り広げられたが、とうとう業を煮やした部長が「あの子は放送部が誇る特別天然記念物として、私物化を禁止する!」と停戦命令を発令。
これにより「放送部紳士冷戦」と一部に揶揄すらされた陰険な内輪もめは幕を下ろし、むしろ女子も楽しく活動できると外部に強くアピールすることで男女比の傾斜を改善する、という従来の姿勢に戻って行ったのであった。
幸いだったのは、これらの醜悪な内ゲバが一切小雪の感知するところではなかった所だろう。もしバレていたら即座に退部届けを出していたか、深雪を頼って更なる事態の悪化を招いていたかもしれない。
放送部の活動内容は昼休み中の「明国院ラジオタイムズ」と呼ばれる校内放送の敢行である。放送内容自体は他愛もない物だが、当然ながらラジオパーソナリティから機材の管理、操作まで全て部員が担当する。
故に校内での認知度は高く、増して史上初の女子ラジオパーソナリティが登場すれば、それが如何に校内にとって衝撃的な事だったかは想像に難くなかろう。
しかし放送名にラジオを冠する通り、あくまでも伝わるのは声のみである。故に「放送部の亀沢さん」は唯一の女子ラジオパーソナリティとして有名でありながら、廊下で出会う人々はさほど彼女に興味を示さない。リスナーの大半は「放送部の亀沢さん」がどのような容姿をしているのか知るはずもないし、増して深雪が隣にいる時に限って言えば、視線が多く集まるのは深雪の方である。
校内にその名を轟かせた小雪とはちょうど真逆に、深雪はその容姿ばかり有名で「鶴丸深雪」という名前は文字通り無名そのものである。
何せ明国院高校は規模が大きく、生徒数も近隣の公立校とは比べ物にならない。当然、生徒数も格段に多いのだが、分母が多くなれば分子も増えるのが世の常、これだけ生徒が集まると管理の手を嫌う者も現れ始めるのである。
特にストリートダンス同好会「B.Q.G.」はその最たる組織と言っても良いだろう。大人の管理を煙たがり、社会や校内の風習や規則に縛られる事を嫌った者たちが、本当の自分を表現する為に集まった、学校非公認組織である。
「教職員に媚びない」「部外者に迷惑かけない」「自己表現をストイックに極める」が三大不文律で、規模こそ小さいがメンバーの自己表現に対する情熱は本物そのものだ。
当然ながら学校側から部費の提供はなく、活動費は専ら部員各自が(学校側から禁止されているはずの)アルバイトで稼いでいる。活動場所も空き教室、屋上、建物前など様々で、決まった部室を持たない。
社会規則を嫌う者が集うという性質上、校則から酷く逸脱した服装や銃器の校内携行などが常態化しており、当然ながら教師や生真面目な生徒から白い目で見られているのは言うまでもなかろう。
深雪はそうした「B.Q.G.」の現リーダー的存在であり、美貌、センス、実力、カリスマ性、どれをとっても組織内では際立っている。
それに加えて、何にも縛られず、何にも捕らわれず、ただストイックに自己を磨き続ける孤高のスタンスから、多少の社会的逸脱行為に目をつぶってでも彼女に一目置く者は決して少なくない。
片や「放送部の亀沢さん」、片や「B.Q.G.リーダー」、側面こそだいぶ違うが、今の活動内容に何の不満も無く打ちこめるという点では(珍しく)2人とも同じなのである。
「じゃ、とりあえず来週の当番ラインナップはこれで良いよな? 異論ある奴は?」
放送部部長がホワイトボードを叩き、
「おっけー」
「大丈夫だぜ」
部員から賛同の声が次々と上がる。
放送室の掃除を行い、その後に翌週の放送内容とその当番を決めるのが、土曜の主な活動内容である。もっとも、部員の大多数は「早く帰りたい」という意見で一致しているため、当番決めや内容を巡って議論が紛糾する事はまずないのだが。
「よっしゃ、じゃ、今日はこれで解散!」
その声と共に「よっし、帰ろう」「ゲーセン行こうぜ、ゲーセン」などと歓声が上がり、部員が次々と部屋を後にする。その中には当然、亀沢小雪の姿もあった。
「亀沢さんはどうする? 一緒にゲーセン行く?」
「え? うーん、ごめんね、パスで」
苦笑を浮かべながら、小雪が両手を合わせる。
「おい、抜け駆けは御法度だぜ?」と他の部員が肘で、小雪に誘いの言葉をかけた部員のわき腹を突き、「馬鹿、そんなんじゃねえよ!」と反撃のアイサインが飛ぶ。年頃の男子高校生にとって、この程度の会話など目配せで十分だ。無論、このスキルは女子高生も標準装備だが、悲しいことに同性間でしか絶対に伝わらない物なのだ。
それはそうと、小雪にとってはゲームセンターはあまり興味のわかないスポットである。色々なゲームの音が大音量で混ざり合うので、人の話もまともに聞こえない。それに将棋やチェスなど長考が許される遊戯ならまだしも、コンピュータゲームのように瞬間的な判断力を求められる物は苦手なのだ。
それに、今日は元々、書店によって帰るつもりだったのである。この前買いこんだ本も大半を読みつくしてしまい、そろそろ新たな文庫本が欲しくなってきた頃合いだ。
部室を後にして、教室まで鞄を取りに戻った後、昇降口で靴を履く。すると、
「あ、こゆきー」
聞き慣れた声が廊下の奥から届いた。振り返ると、Tシャツにハーフパンツ姿の深雪が──この格好はB.Q.G.活動中を意味するのだが──こちらに歩いてくる。
「深雪ちゃん?」
「ちょうど良い所で会ったわ。そっち、もう部活終わった?」
「うん。今から帰るところ」
「分かった、10分待ってて。すぐ支度してくるから」
言うが早いか、深雪は今来た道を逆走し始めた。
「えっ、あっ、深雪ちゃん! ……行っちゃった」
そんな無理に合わせてくれなくても、と思う間もなく去って行った深雪。こういう時の彼女には行動力がある。
帰るに帰れず、そうして待つこと8分。
「ごめんごめん、待った?」
あっという間に制服に着替えた深雪が、デイバッグを背負ってこちらに走ってくる。
「深雪ちゃん、部活の方、大丈夫なの?」
「うん? ああ、平気よ。そこら辺は授業なんかよりずっと融通効くし」
これで全体の統制がとれているというのだから驚きである。
「それにほら、これ。今日までなのよね」
と深雪は財布より広告の切り抜きを取り出し、小雪に見せつけた。よくよく見れば、それは「ドリンク無料」の文字が躍るカラオケ屋のクーポン券。
「ってわけで、小雪、一緒にカラオケ行くわよ」
「えぇっ!? でも──」
「これ、2人までしか有効じゃないのよね。2人って言ったらあたしとあんたで決まりでしょ? ほら、四の五の言わないで、行くわよ」
屋外ダンス用のスポーツシューズをはき終えた深雪が、既にローファーをはいて待っていた小雪の腕をぐいぐい引っ張る。
「えっ、あっ、深雪ちゃん、ちょ、ちょっと──」
振り回されるのはいつだって小雪なのだ。
それから電車で移動すること二駅。駅前付近からカラオケ屋までは少し歩くことになる。その間にある大きな書店が小雪の後ろ髪を引いた。
本当は今日、ここに寄ってから帰るつもりだったのである。──帰りに忘れないで寄って行こう。
やがて歩くこと数分。
「ああ、あれよ、あれ」
ようやくカラオケ屋の看板が見えてきた。意気込みだした深雪の隣で、小雪は何の曲を歌おうかと思案に暮れる。あまり流行の曲には詳しくないのだ。
しかしその時、不意にビル街の合間を銃声が駆け抜けた。一発ではない、複数の銃声が織りなす死神のゴスペル。二人の顔が急に強張る。
一体なんだろう、と小雪は辺りを見渡した。生の銃声なんて聞いたのはこれが初めてである。
「小雪、走って!」
一方、深雪のスタートダッシュは迅速そのものであった。英文法の予習ノートをねだる腑抜けた顔とは違う、緊張に満ちた顔だ。
小雪の腕を掴み、急いで近くの建物に入ろうとするも、すぐ横の建物は既に万年シャッター商店街。入れそうな建物は、皮肉にも2人が目指していたカラオケ屋が一番近い。
「う、うん!」
体育は苦手な方の小雪も、深雪に合わせて一生懸命に走った。
自動ドアをくぐった瞬間、中にいた人の視線が一斉に降り注ぐ。無理もない、誰だって銃声と同時にドアが開いたら不審者か通り魔、強盗でも入ったのかと怯えるに決まっている。だが幸いな事に、入ってきたのが女子高生2人と分かった途端、嫌疑の目はすぐに収まった。
受付の店員は必死になって各部屋に電話をかけている。館内放送を使えば一発だったのだろうが、人間と言う物は得てして緊急時には冷静な判断に事欠くものである。
「とりあえず、ほとぼりが冷めるまではここにいましょう」
深雪がそっと小雪の体を寄せる。少しずつ近寄ってくる銃声に、小雪はただ恐怖に震えるより他はなかった。ここまで怖い思いをするのはこれが初めてである。
勿論、深雪を恨むのは筋違いだとは分かっている。第一、例えカラオケに誘われなくても、自分はあの書店に寄って帰るつもりだったのだ。どの道巻き込まれていたと考えて、何とか諦めを付けようと必死だった。
その刹那、店の自動ドアが開く。まさか、と2人は固唾を飲んだが、入ってきたのは同じ明国院の制服を纏った少年であった。それも1人である。
深雪の注目は「なんだ、避難者か」とそこで途切れたが、小雪の方はまだ少年の顔を覚えていた。確か今朝方、自分の教室を間違えてきた、あの男子生徒──
無論、小雪もそこまで人の顔をじろじろ見る方ではない。今朝も今もチラッと見た程度だ。見間違えや記憶違いの可能性だって十分ある。第一、今はそれどころじゃない!
少年は──一応彼にも伊勢憂臣という名があるのだが──2人には勿論、受付にも目もくれず、即座にエレベーターに乗り、上の階に昇って行った。きっと受付そのものは済ませてあったのだろう。それに、受付も彼に構っている暇はなさそうだった。
途端、銃声が一段と迫ってきた。姿の見えない悪夢に、小雪は不意に足元が揺らぐ錯覚に襲われた。今にも気が狂ってしまいそうだ、すぐにここから逃げ出したい! ──でもどこへ逃げればいいの?
どこかへ逃げようにも、凶弾がどこから忍び寄っているのか分からない以上、動きようがない。小雪に出来る事と言えば、深雪にしがみつき、少しでも自分を落ち着かせようと息を整える事くらいだった。
深雪も深雪で必死であった。自身の全神経を逆立たせ、少しでも早く異変を察知しようと殺気立っていた。背中にしがみついている小雪の身ぶるいが自分にも伝わってくる。
──あー、小雪ちゃん可哀想。どっかの誰かさんに巻き込まれてこんな所に押し込められるなんて、あー可哀想。
入口のウィンドウに映った自分の影が嗤う。
分かっている、小雪をこの惨劇に巻き込んでしまったのは他ならぬ自分自身だ。例えここで自分が死のうとも、小雪だけは無事に帰さねばならない。いや、例え自分に過失が無かったとしても最初からその気だ。
「深雪ちゃん……、私たち、これからどうしよう……」
小雪の目にうっすらと涙が浮かぶ。
「け、警察に、連絡した方が──」
「大丈夫、ほら、サイレンの音がするでしょ。これだけの事態だもの、ピーさん呼んだ人は少なくないはずよ」
“ピーさん”、警官(Policeman)を意味する隠語であり、深雪を筆頭とするB.Q.G.内では“ティーちゃん”と肩を並べて一般名詞として浸透している。
深雪の毅然とした態度は、小雪を安心させた。もし深雪まで慌てふためいていたら、小雪は誰を頼って良いのか分からない。
「じゃあ、きっともうすぐ、警察が来てくれるよね……?」
「ええ、そう願いた──」
瞬間、深雪の言葉が詰まる。ウィンドウの向こうに見える人影。その手に見える小火器類。参上、死神合唱団。さあ皆さま、悲鳴を拝借。
「小雪!」
ほぼ反射的だった。深雪は小雪を建物の奥の方へ突き飛ばす。
ふいに頼れる者から引きはがされ、地に押しつけられた小雪が上体を起こすと同時に、自動ドアが凶弾の射手たちを受け入れた。──よくぞいらっしゃいました、御客様。さあさあ、こちらでどうぞ思う存分お歌いくだされ。
最初に声を挙げたのは客でもなければ店員でもなく、侵入者たちの持っていたアサルトライフル。けたたましい産声を上げた銃弾が、フロントの女性店員の胸に開けた人体トンネル。
「うわあああっ」
「だ、誰か、誰かぁッ」
ロビーに木霊する悲鳴の不協和音。採点システムはこれに何点与えるのだろう。銃声をバックに逃避のダンスを踊る群衆、ついに惨劇のディスコは幕を開けた。
「小雪、逃げて!」
スカートの下、左太ももに直巻したホルスターから拳銃を抜いた深雪が叫ぶ。もう小雪の方に視線を送っている余裕はない。
愛銃、グロック17。左利きである深雪にとっては、貴重な「左利き用拳銃」である。ありそうで意外とない左利き用拳銃、入手には本当に苦労した物だ。
まずは手に実射感覚を馴染ませる為の試射一発、続いて牽制射撃を二発。正確な狙いをつけるのは苦手なのだ、こういう時は質より量、正確性より連射性である。
反撃に気づいた強盗の1人が銃口をこちらに向ける。──お生憎、ピアス穴はもう間に合ってるわ。
深雪が転がり、床が爆ぜる。ドッジ回避はお手の物、踊り子は機敏さが売りなのだ。──子供の頃はよくやったわね、でんぐり返し。
間髪いれず、フロアに警報が鳴り響く。見ると、中年の男性客が火災用の非常ボタンを押していた。
「あのうるせえ警報を黙らせろ!」
強盗の1人が叫び、深雪の方を向いていたアサルトライフルが彼女に側面を見せる。だが、隙を突いて反撃できるだけの余裕は深雪とて持ち合せていなかった。
男性客だって、強盗の気を引くためにベルを押したわけではない。むしろ『緊急時には非常ベルを押す』とマニュアル化した思考に基づく結論でしかなかっただろう。確かに、火災相手には有効かもしれないが、相手が凶悪犯ではただただ死期を早めるだけに過ぎなかった。
──でも、助かったわ。ありがとう、おっさん。仇、きっと討つから。
小銃の笑い声と男性の断末魔をバックに、深雪が奥の通路に向かって走り出す。後戻りは許されない、それに小雪が先に逃げているはずだ。彼女に追いつかねばならない。こんな状況で小雪を1人になんかできない!
瞬間、廊下の電気がふっと消え、上の階からも悲鳴が聞こえてきた。どうも連中が撃った弾が配電盤を破壊したと考えて良さそうだ。──まったくもう、やんちゃ坊主なんだから!
人気のない廊下を進んで角を右折すると、立ち尽くし途方に暮れる小雪の姿があった。その後ろには「Staff_Only」と金字で刻まれた洒落っ気のある扉。他には何もなく、どうもこの通路自体が業務用の物らしい。
「深雪ちゃん!」
深雪の姿を視認するなり、小雪は飛びついてきた。1人で突き放される恐怖は、誰の想像も及ぶところではない。
「小雪、怪我はない?」
その言葉に、小雪の首がこくんと頷く。
「よし、じゃあひとまず、この中にでも隠れるわよ」
「あ、でも──」
小雪が何かを言おうとしたが、その程度の内容なら既に深雪だって分かっている。長い付き合いだ、その辺りは手に取るように分かってしまうのだ。
亀沢小雪という人間は社会規則に従順である。故に、扉に「従業員以外立ち入り禁止」と書かれている以上、中に入るのには抵抗がある、つまりこういう事なのだろう。
「大丈夫よ。こんな時なんだもの、店だって文句言わないわ。後で何か言われた時は、あたしがぶっ飛ばすから──」
やぶさかでない台詞を吐きながら扉を開けた深雪であったが、その中を見た途端に啖呵が呆気なく萎れていく。
「──でも、その中、狭くて、隠れる場所なんて……」
深雪は期待していたのだ。扉の向こうには事務室があり、よもや従業員用出入り口から脱出できるかもしれない、と。
だが扉の向こうにあったのは畳2枚分ほどのスペースに、モップや洗剤などの清掃用具がうず高く積まれているばかり。
先にここまで来た小雪はきっと、既にこの扉を開け、中がこうなっている事を知っていたのだ。だから気が進まない様子だったと考えれば、何とも恥ずかしい限りの早とちりである。
それは兎も角、参ったわね、と深雪は意地悪く積まれた荷物を見上げていた。
──ザマぁ見やがれ、クソ女。悪運もこれまでだ、てめえはここで耳を揃えて死ぬんだよ。
──今からでも連中に命乞いする練習でもした方がいいんじゃねえのか? 涙と鼻水で濡れた顔を床に擦りつける練習を、よ。
──あー、巻き添え食った小雪ちゃん可哀想。誰かさんのせいで死んじゃう小雪ちゃん可哀想。あー可哀想。マジ可哀想。
嗤うモップ、嘲る洗剤、蔑むバケツ。降り注ぐ冷たい視線に、深雪の拳銃を握る手に力が入る。
──オーケイ、笑え笑え、好きなだけ笑うがいいわ。でもね、最後に笑うのはこのあたしよ。
「そっちに隠れてる奴、出てこいやぁッ!」
侵入者の1人が叫び、曲がり角の壁がえぐれていく。迷っている暇はない。
「小雪、とりあえず中に隠れるわよ! 考えるのは後!」
言うが早いか、深雪は小雪の手を引いて用具入れの中に飛び込んだ。しかしただでさえ狭い部屋、その大半を掃除用具やシンクに占領されていては、隠れる事は容易ではない。その間にも侵略者は一歩また一歩と確実にこちらへ迫ってくる。
「どうしよう……、深雪ちゃん、どうしよう!?」
小雪の精神的疲弊度も相当な物だ。これ以上危険な橋を渡らせるわけにはいかない。深雪はワンテンポ置いて、ついに決断を下した。
すぐにシンク下の収納棚を開ける。中にもバケツや雑巾が入っていたが、全部外に出せば小柄な人が1人入れるだけのスペースはあるだろう。
「小雪、ここに隠れて」
シンク下の荷物をかなぐり捨てながら、深雪は小雪に呼びかけた。
「えっ、でも──」
「いいから、早く。いい? あたしが呼ぶまで外に出ちゃ駄目よ」
「でも、深雪ちゃんは?」
「あたしは大丈夫。何とかするわ」
と強がって頬笑みながら、
「勿論、努力はする。ベストも尽くす。でも、もしあたしも駄目になったら、最後はこれで自分の身を守って、小雪、あんただけでも生き残るのよ」
深雪は持っていた拳銃を小雪の手に握らせた。初めて握った実銃に、小雪の顔がみるみる蒼白さを増していく。
小雪の父親は弁護士をしている。「法律とは弱者を守るためにある」という理念を掲げて日々社会に貢献している父を、小雪は誇りに思っていた。彼女が少々規則にうるさいのも、父の影響の表れであろう。
そんな小雪の父にとって、今日最大の案件は何と言っても銃規制の大幅緩和に伴う犯罪率の増加であった。「弱い者の味方であるはずの法律が強い者に力を与えてしまった」と嘆き、今も規制の再強化に向けて活動している。
当然ながらそんな彼が、大切な一人娘が実銃を手にすることを良しとするはずがなかった。世論がどうあろうと、亀沢家の中において実銃は「自衛の手段」ではなく「人殺しの道具」として認知されているのだ。
故に小雪は、今の今までそんな「人殺しの道具」を手にした事がなかった。存在そのものに嫌悪感を抱いていたほどだ。それが今、自分の手に握られているのである。畏怖の念も人一倍という物だ。
(余談だが、小雪の両親にとっては深雪の存在もまた不安材料の1つであった。つい少し前まで、社会規則にルーズな深雪が娘に悪影響を与えないか、本当に心配していた物である)
ところが深雪の銃に対する価値観はこれまた正反対で、「立派な自衛手段」としての地位を確立している。
誰にも媚びず何にも縛られない、そんな生き様を良しとする深雪が「誰かに守ってもらおう」などという意識を持ち合せているはずがない。自分の身は自分で守る。強く気高く誇らしく、それが彼女の美学である。
時には、──実は今日もそうだったのだが──校則を無視してまで校舎内に拳銃を持ちこむのも、この美学に基づく自衛精神の賜物という物だ。言わば、深雪にとって銃とは「自衛の手段」、更には「自衛精神の象徴」とでも言うべき存在なのである。
言うまでもなく、この期に及んで武器を失う事は深雪にとって痛手以外の何物でもない。むしろ今こそ自衛のための力が必要とされている時だ、そんなことは分かっている! ……しかし、それは小雪も同じであろう。それどころか、小雪の方が自分より非力だ。
おまけに彼女をこの惨劇に巻き込んでしまったのは他ならぬこの自分だ。このくらいしないと割にあわない。──まったく、ドリンク一杯で高くついた物ね!
「引き金を引けば弾が出る、それだけ覚えておけば十分よ。勿論、必要にならないに越したことはないんだけどね。──さ、早く隠れて!」
「だけど、深雪ちゃん──」
「大丈夫よ、あたしを信じて」
深雪に強く肩を叩かれ、小雪は力なく頷いた。
だがその瞳からいつもの知性ある輝きが失われつつあった事、度重なる緊張と価値観の違いを押し付けられた事が産んだストレスで小雪の精神が破綻寸前に追い込まれていた事に、深雪はとうとう最後まで気づけなかった。
読了ありがとうございました。
次は明日か明後日あたりを目途に投稿したいと思います。
恒例のキャラ設定は、その後と言う事で(