■最終話「それでも、ここにいる(完全版)」
施設の中は、外から見た無機質な印象よりもさらに静かだった。音が抑えられているというより、必要のないものが最初から排除されている。壁も床も均一で、どこにいても同じ景色が続く。方向感覚が曖昧になるほど整いすぎた空間は、人が長く留まることを前提としていない。ここは生きる場所ではなく、扱うための場所だった。
少女はその内部を進んでいた。足音はほとんど響かない。それでも自分の動きだけが、やけに大きく感じられる。胸の奥で、引かれる感覚が強くなる。近づいている。見えなくてもわかる。
「……そこだ」
小さく呟く。
迷いはない。どこへ行けばいいのか、説明できなくても理解している。粒が周囲に浮かぶ。数は多い。だが暴れてはいない。静かに、少女の呼吸に合わせて揺れている。
通路の奥に扉が現れる。他と同じ素材のはずなのに、そこだけ違うとわかる。重い。閉じられているというより、遮断されている。
少女は足を止めない。そのまま手を伸ばす。
「……開けろ」
触れた瞬間、粒が反応する。手の周囲に集まり、扉の表面に広がる。押し込むでもなく、叩くでもなく、触れるように侵食する。
音はない。
ただ、形が保てなくなる。
扉が静かに崩れる。
その先に、光がある。
透明な容器。
その中に、小さな体。
少女の呼吸が止まる。
「……いた」
声がかすれる。
「……いた」
足が止まる。
動けない。
さっきまでの勢いが消える。
ただ、そこにいることだけが全てになる。
ベビーパピニーが、そこにいる。
液体の中で、ゆっくりと揺れている。
生きている。
それだけで、胸が締めつけられる。
「……よかった」
言葉が落ちる。
その瞬間、背後で音がする。
足音。
複数。
無線の声。
「対象、コア到達」
「排除優先」
現実が戻る。
少女はゆっくりと顔を上げる。
振り返らない。
見る必要がない。
「……うるせぇ」
小さく言う。
「今、それどころじゃねぇ」
容器に手を伸ばす。
触れる。
冷たいはずの表面は、どこか柔らかい。押し返される感覚。
「……邪魔すんな」
粒が集まる。
密度が上がる。
圧がかかる。
容器の表面に、わずかなひびが入る。
背後で声が強くなる。
「停止しろ!」
「対象が不安定化する!」
少女は聞いていない。
聞く意味がない。
「……返せ」
低く言う。
「それ、返せ」
粒がさらに重なる。
圧が増す。
ひびが広がる。
容器が耐えきれなくなる。
「……壊れる」
少女の声が震える。
「……いける」
もう一度、力を込める。
その瞬間、容器が崩れる。
音はほとんどない。
ただ、形が保てなくなる。
液体が流れ出る。
ベビーパピニーの体が、ゆっくりと落ちる。
少女は迷わず手を伸ばす。
抱き止める。
軽い。
でも、確かにそこにいる。
「……いた」
声が崩れる。
「……いた」
何度も繰り返す。
「……よかった」
抱きしめる。
強く。
離さないように。
ベビーパピニーの指が動く。
少女の服を掴む。
その感触が戻る。
それだけで、全部が繋がる。
「……離すなよ」
かすれた声。
「もう、離すな」
ベビーパピニーは何も言わない。
それでも、しがみつく。
それでいい。
それだけでいい。
そのとき、空間が揺れる。
装置の制御が崩れる。
光が乱れる。
壁の一部が歪む。
「……出力が維持できない!」
「制御不能!」
無線が乱れる。
少女はゆっくりと振り返る。
人影たちが後退している。
さっきまでとは違う。
迷っている。
理解できていない。
「……なんだよ」
少女は小さく言う。
「最初から、そうしとけよ」
怒りは残っている。
それでも、もう必要ない。
やることは終わった。
「……行くぞ」
ベビーパピニーに向けて言う。
「帰る」
どこへ、とは言わない。
ただ、ここじゃない場所。
それだけでいい。
少女は歩き出す。
止めるものはいない。
止められない。
粒が自然と道を開く。
空間が避ける。
進むための道ができる。
そのまま外へ出る。
光が広がる。
空が見える。
風が当たる。
少女は立ち止まらない。
ベビーパピニーを抱えたまま、歩く。
ゆっくりと。
確実に。
「……なあ」
小さく呟く。
「怖いか」
ベビーパピニーは答えない。
ただ、しがみつく。
それで十分だった。
少女は少しだけ笑う。
「……俺もだ」
正直な言葉。
「……でも、いい」
空を見上げる。
同じ空。
でも、違う。
隣にいる。
それだけで、違う。
「……いいな」
ぽつりと落ちる。
かすれた声。
それでも、確かにそこにある。
少女は歩く。
止まらずに。
逃げるでもなく、隠れるでもなく。
ただ進む。
どこへ行くかは、まだ決まっていない。
それでもいい。
もう、一人じゃない。
それがすべてだった。




