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パピニー  作者: 藤苺めぇ


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高所に棲む少女

都市の中央に、その建物は不自然に伸びていた。元の設計を無視するように増築が繰り返され、階層ごとに材質も構造も異なっている。コンクリートの上に木材、その上に鉄骨が重なり、隙間という隙間から草が生えていた。人の手入れが入っている形跡はないのに、枯れるどころか、上へ行くほど濃くなっている。まるでこの建物だけが、都市とは別の環境に属しているかのようだった。


その最上部に、少女は住みついている。丸く歪んだ屋根の内側、板切れと布、半透明のシートで囲われただけの簡素な空間。風が吹けば軋み、雨が降れば内側に水が垂れるが、不思議と完全に濡れきることはない。流れがどこかで逸らされているような、不自然な偏りが常にあったが、少女はそれを疑問として捉えることはなかった。


少女は十四歳ほどに見える細い体つきで、長く伸びた髪が片目を隠している。着ているのは大きすぎる黒いTシャツ一枚だけで、体を覆い隠すように膝下まで垂れている。その中で彼女は体を折りたたみ、できる限り外気に触れないようにしている。寒さというよりも、露出そのものを避けるための姿勢だった。


少女は自分のことを「俺」と呼ぶ。それは意図的なものではなく、そうとしか呼べなかったからだ。彼女が幼い頃に耳にしてきた言葉は、父や弟が使う粗い言い回しばかりで、「私」や「わたし」といった一人称を教わる機会がなかった。少女は自分が女であることを理解しているが、それを示す言葉を知らないまま、「俺」という一人称を使い続けている。


少女は常に見られていると感じていた。壁も布も意味を持たず、視線だけがすり抜けてくるような感覚がある。特に男性の視線に対して、その感覚は強くなる。重く、まとわりつくようで、皮膚の内側まで入り込んでくるような錯覚。どれだけ隠れても、どれだけ覆っても、それは消えない。


その感覚の根は、過去にある。少女は幼い頃、家の中で繰り返し傷つけられてきた。詳細を思い出そうとすると、記憶は途中で濁る。ただ、押さえつけられる感覚や、逃げられない状況、耳元に残る不快な音だけが断片的に残っている。それ以上は思い出さないように、無意識に遮断していた。


少女は逃げた。その事実だけははっきりしている。どこをどう通ったのかは曖昧だが、気づいたときにはこの高所にいた。ここなら届かない、ここなら触れられない、そう直感的に理解して、そのまま居着いた。どれくらいの時間が経ったのかはわからない。日付の感覚はなく、昼と夜の区別だけが辛うじて残っている。


少女は膝を抱え、片目で下の街を見下ろす。人が歩き、車が動き、店の灯りがともる。音は届かないのに、そこに生活があることだけはわかる。その光景を見たとき、少女の中に生まれるのは、恐怖と、わずかな羨望だった。自分とは無関係だと理解しながらも、そこに混ざることを想像してしまう。


「……いいな」


かすれた声が漏れる。長く誰とも話していないせいで、声は小さく、頼りない。それでも言葉にしてしまうのは、完全に感情を押し殺すことができないからだった。少女は外の世界に興味を持っている。しかし同時に、自分はそこに入ってはいけないという確信もある。理由はわからない。ただ、外に出れば何か取り返しのつかないことが起きるという予感だけがある。


少女は自分を人間だと思っている。だが、ときどきその前提が揺らぐ。自分の周囲で起きる小さな違和感、意図せず変化する環境、それらに気づきかけることがあるが、そのたびに思考を止める。思い出してはいけない何かに触れそうになるからだ。


そのとき、空に異変が現れた。遠くに黒い点がいくつも浮かび上がる。最初は小さかったそれは、ゆっくりと形を持ち始める。細長く、鋭い影。民間の航空機とは明らかに異なる規格の機体が、一定の間隔を保ちながら進んでくる。


少女の呼吸が浅くなる。理由はわからないが、強い警戒心が胸の奥から湧き上がる。それは見覚えのある恐怖とは違う、もっと冷たく、正確なものだった。機体は増え続け、空を覆うように広がっていく。地上の人々はまだ異変に気づいていないが、少女にはそれが「偶然ではない」と理解できた。


少女は反射的に体を奥へ引き込める。布を握りしめ、存在を消すように身を縮める。見つかってはいけないという確信だけが、強く残る。視線とは違う、もっと機械的な何かが、自分の位置を正確に捉え始めているように感じられた。


「……来るな」


震える声がこぼれる。願いなのか拒絶なのか、自分でもわからない。それでも言葉にせずにはいられなかった。空の機体はやがて旋回を始める。偶然とは思えない軌道で、建物の周囲を囲むように動いている。


その瞬間、少女は理解する。自分が何かの「対象」になっている可能性を。理由はわからない。ただ隠れていただけのはずなのに、何かがそれを許さないかのように動いている。


見られている。


それはこれまで感じてきた人の視線とは違う。感情のない観測。ためらいも、躊躇もない、ただの把握。だからこそ、少女にとってはより恐ろしいものだった。


心臓の音が強くなる。耳の奥で反響し、思考をかき乱す。少女はさらに奥へと潜り込み、外界を完全に遮断する。それでもなお、何かに捕捉されている感覚は消えない。むしろ、距離が縮まっているようにすら感じられた。


空の異変は、まだ始まったばかりだった。

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