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私は手を伸ばし、彼女の袍の襟元にできた微かな乱れを整えた。指先が鎖骨をかすめた時、彼女の呼吸が明らかに一瞬止まった。
「信じている」
たった四文字を軽く口にすると、彼女の肩がわずかに下がった——それは警戒を解いた兆しだった。
私は二歩下がり、距離を取った。信頼の態は十分に演じなければならない。この件は、大きくもなければ小さくもない。結衣の考え方次第で、私の今後の手の組み方が変わってくる。想定外の破綻だけは何としてでも避けなければならなかった。さもなければ、この政略結婚は脆くも崩れ去ってしまう。
「早く休め。明日は会議があるんだろう」私は振り返る際、その引き出しにちらりと目をやった。「買収の件で何かあれば、いつでも声をかけてくれ」
扉が背後で閉まった瞬間、室内からごくかすかな嘆息が聞こえた。
廊下では、執事が待ち構えていた。まだ震えている携帯電話を差し出す。
「佐々木様から、三度目のお電話です」
私はそれを受け取り、露台に出てから応じた。
「小林! 結衣、あの貧乏くさい男とまた連絡を取っているんじゃないでしょうね? あなた、私が伝えた警告をまだ軽く見ているの? 聞いたのよ——」葵の声は鋭く、富裕層の妻特有の取り乱しようを帯びていた。
「伯母上」私は彼女の言葉を遮った。声は静かだった。「結衣は、自分できちんと処理すると言っていました」
電話の向こうで、二秒ほどの沈黙があった。それから、冷たい笑い声が響いた。
「彼女がきちんと処理できる? できるものなら、佐藤のあの小僧が彼女の会社の建物に現れたりしないでしょうが! あなた、今日の午後——」
「社内に入りましたか?」
「警備員が止めたわ。でもあの小僧、入り口で二時間も突っ立っていたのよ! 結衣の秘書の話では、彼女は執務室の窓の帳の陰から三十分もの間、外を見ていたんだから!」葵の声は震えていた。「小林、あなた何とかしなさい。あの佐藤って男は、吸血虫なのよ。私たち佐々木家の血を吸い尽くそうとしている——」
「伯母上」私の声はごく穏やかだったが、まるで刀のように彼女の言葉の連なりを断ち切った。「私は、結衣を信じると申し上げました」
通話を終える。私は考え込んだ。彼女は何をしたいのだろう? なぜ私よりも焦っているのか?
露台の下には庭園が広がり、夜間灯が灌木の輪郭を浮かび上がらせている。佐々木家のこの屋敷は、その灯りひとつ、煉瓦ひとつに至るまで、誰がこの家の主であるかを語りかけていた。
佐々木家も、穏やかではないようだ。私はそう心の中で呟いた。
携帯電話がまた震えた。今度は短い報せだった。見知らぬ番号からだ。
「小林様。私、佐藤と申します。お目にかかりたく、お願いしたく」
文面には無駄な修飾は一切なく、宛名の書き方さえも、どこか意地っ張りな感じが漂っている。
興味深い。
私は画面を数秒見つめた後、携帯を懐に仕舞い、無視した。私の貴重な時間を、このような負け犬とひそかに会うために割くつもりはなかった。
書斎の扉が内側から開き、結衣が出てきた。手には上着と車の鍵——明らかに出かけるつもりだった。
彼女は露台に立つ私を見つけ、その場で固まった。
「私……」彼女は一瞬迷った。「ちょっと、散歩に」
午前一時。背広の上着を羽織っての“散歩”。
「付き添おうか?」私は尋ねた。
「いいの」彼女はうつむき、足早に私の横を通り過ぎた。
すれ違いざま、彼女の身にまとう香りが鼻をかすめた——いつもの冷たい木の香りのものではなく、もっと淡く、若々しい香りだった。
誰かに会うつもりなのだろう。
彼女は車は出さなかった。執事が後で教えてくれた。彼女は門のところで街の車を呼び寄せ、旧市街の住所を告げたらしい。
私は露台に立ち、彼女が車に乗り込むのを見ていた。車の灯りが角を曲がって見えなくなるまで。
夜風が冷たい。
携帯電話の画面が輝く。佐藤からのあの報せがまだ残っている。私は返さなかった。
駒の中には、自ら手を触れずともいいものがある。ただ、どのように盤上に置かれるかを見ていればいい。
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翌朝、私は食堂で結衣と出会った。
彼女は服装を替え、薄化粧をしていたが、目の下の疲れは隠しきれていなかった。葵は向かいに座り、顔色は青ざめていた。箸で粥の入った碗を突くその様は、まるで何か恨みのある相手を突き刺すかのようだった。
「結衣、昨夜どこへ行っていたの?」葵の声は氷のように冷たかった。
「友達に会っていたの」結衣は料理を取る箸を止めなかったが、私が彼女を見ていることは分かっていた。
「友達?」葵が冷笑する。「どういう友達に、真夜中に会うの?」
「お母さん」結衣は箸を置き、穏やかな口調で言った。「私だって三十歳よ。行く先々を報告しろと?」
「あんた——」
「伯母上」私は口を挟み、湯飲み一杯のぬるま湯を結衣の手元に置いた。「どうぞ。今日は買収の会議があるんですから、良い状態で臨まなければ」
葵は口を開いたまま、私の視線に押されて閉じた。
結衣が私を見た。その目には感謝と——それとは別の、もっと複雑なものが混じっていた。
「ありがとう」彼女は低い声で言った。
朝食は沈黙の中で続いた。彼女の左手の薬指に、私たちの婚約指輪がはめられているのに気づいた——普段は正式な席にしかつけないものだ。
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午前十時、秘書から報せが入る。佐藤は旧市街に月極め八百円の地下部屋を借りたらしい。昨夜遅く、結衣はその路地の入り口に二十分間立っていた。中には入らず、そのまま去った。
彼女は佐藤には会わなかった。
だが、彼女はそこへ行ったのだ。




