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浮気調査から始まる商業帝国築き上げた件について  作者: 白鼠


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1

書斎の扉を開けると、佐々木結衣の指が、色あせた写真の上をなぞっていた。古い屋敷の前で並んだ二人の子供——その笑顔が、まぶしいほどに無邪気で、痛いほどだった。


彼女は火に触れたように、その写真を引き出しに押し込んだ。その動きは、どこかみっともなく慌ただしかった。濃紺の絹の袍が、振り返る際にわずかに揺れ、彼女の張り詰めた肩先をなぞる。


「こんな遅くに、まだお仕事?」私の声は静かだったが、視線はあの引き出しを捉えていた。


「ええ、明日、企業買収の案件で会議があるの」彼女は目をそらし、書斎の机へと歩み寄る。指先は書類の端を押さえていた。「どうして……来たの?」


夜更けの訪問に、「何の用」ではなく「どうして来た」——彼女の胸の内にある後ろめたさが、その言葉ににじんでいた。


「通りかかって、灯りがついていたものだから」私は数歩、距離を詰める。彼女の耳の根元が、ほんのりと赤らんでいるのが目に入った。「あの写真、誰だい?」


「なんでもないわ。子供の頃の」彼女は早口に言い、指が書類の端を無意識に撫でている。「とっくに忘れたことだし」


忘れた。本当は、忘れられないのだろう。


窓の外の街灯りが、彼女の背を光の海に変えている。その表情は、明暗の間をたゆたっている。私の婚約者であり、江城最年少の女性社長である彼女が、今はまるで、秘密を暴かれた少女のように。


「結衣」私は彼女の名を呼んだ。その声には、拒むことを許さない落ち着きがあった。「私たちの婚約は、君にとって、何を意味する?」


彼女は顔を上げた。いつもは冷たい霜を帯びたその瞳に、一瞬、迷いが揺れた。


「家の責務よ。それに、事業上の結びつき」彼女の答えは、一切の隙がなかった。「それについては、もうとっくに話し合ったはずでしょ?」


話し合った。だが、彼女は「喜んで」とは言わなかった。「理解した」とだけ。


机の上の携帯電話が、短く震えた。彼女の視線が、無意識にそれへと流れ、すぐに戻された。そのわずかな仕草が、まるで針のように、私が入念に築き上げてきた青写真に、正確に突き刺さる。


「佐藤一郎が最近、仕事を探していると聞いたが」私は何気なく、まるで天気の話でもするかのように、その名を口にした。


結衣の息が、一瞬止まった。


「どうしてそれを知っているの?」


「江城は狭いからね」私は微かに笑った。「それに、今日、君の母上から電話があってな。かなりご機嫌が良くなさそうだった」


彼女は下唇を噛んだ——その仕草が、彼女の緊張を露わにしていた。


「彼は……ただ仕事が必要なだけよ」


「義母上のご意見は、佐々木家からは距離を置け、ということだったが」私は机の縁に寄りかかり、彼女を見下ろした。「おじい様はな、人は貧しくとも、志は低くあってはならぬ、とお考えだった」


「おじい様が、何と?」彼女の声に、かすかな焦りが走った。


私は逃さなかった。佐藤への関心が、家族の会話という名の探りの中に、隠されていることを。


「おじい様はな、佐々木家は、信義を捨てるような真似はせぬ、と」私は彼女の目をまっすぐに見据えた。「結衣、君はどう思う?」


書斎の空気が、数瞬、凍りついた。電話が再び鳴る。相手は彼女の母、佐々木葵だ。


彼女は受話器を取る。耳元から漏れる声はぼんやりとしていたが、そのヒステリックな響きだけは、はっきりと伝わってきた。


「結衣!あの貧乏くさい男、また連絡してきたんじゃないでしょうね? いいから——」


「お母さん、今忙しいの」彼女は、いつもより速い動作で電話を切った。その指先は、わずかに震えていた。


沈黙が、二人の間に広がる。やがて彼女は顔を上げた。その瞳には、何かを決意した色が宿っていた。


「小林、私がきちんと処理するわ」彼女の声は、再び冷ややかなものに戻っていた。「婚約のことで、あなたに迷惑はかけないから」


なんと完璧な答えだろう。理性的で、品があって、一切の非の打ちどころもない。


だが、彼女は「佐藤に迷惑はかけない」とは、言わなかったのだ。

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