帳簿の向こう側
第一章 数字に追われる日々
佐藤健は、都内の中堅銀行の法人営業部に勤める二十六歳。
大学を卒業して入行し、3年目。周囲からは「優秀な若手」と評されることもあったが、本人の胸の内は穏やかではなかった。
営業ノルマは年々上がる一方だ。
「今年は目標一億円だぞ」「担当先の融資案件、もっと取ってこい」
上司の声が耳から離れない。
ある日、取引先の企業から急ぎの入出金依頼を受けたときだった。
現金精算の処理で、一時的に出金額が多く計上されていた。健は咄嗟に「後で調整すればいい」と思ってしまった。
──これが、すべての始まりだった。
すぐ戻せばいい。
最初は数万円だった。ところが別の案件で穴埋めが必要になり、額は膨れ、やがて二桁、三桁に…。
眠れない夜が続いた。胸の奥で鳴る心音がやけにうるさい。
同僚が談笑する横で、健の頭は常に「どうやって戻すか」で埋まっていた。
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第二章 雨の邂逅
ある午後。外回りの帰りに降り出した雨から逃れるように、健は古い喫茶店に入った。
昭和の香りが残る小さな店。落ち着いた照明と静かなジャズ。
だが健の心は静まらない。冷めかけたコーヒーを前に、頭の中で同じ言葉が回り続ける。
「バレたら終わりだ」「でも返せない」「どうしたらいい」──。
「若いのに、その顔は重すぎるな。」
隣の席から低い声がした。
顔を上げると、40代半ばの男。
落ち着いた紺のスーツ、少しほつれたネクタイ。眼差しが妙に鋭い。
「すみません、顔に出てました?」
「いや、手に出てる。」
「手?」
「指先にボールペンの跡があるな。黒と青が混じってる。銀行員だろ?」
健は驚いて言葉を失った。初対面の相手に職業を見抜かれたのは初めてだ。
「……よく分かりますね。」
「元々そういう仕事してたからな。」男は笑みを浮かべた。「俺は加藤という。」
軽く雑談を交わしたが、加藤の視線は不思議と鋭く、こちらの心を見透かしているようだった。
「数字に追われてる顔だ。最近、帳簿の数字が夢に出てこないか?」
健は背中に冷や汗を感じた。
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第三章 見抜かれた罪
「なぜそう思うんです?」健は笑ってごまかそうとした。
加藤はコーヒーを口に運び、淡々と言った。
「金の匂いに振り回されてる奴はすぐ分かる。俺も昔そうだったからな。」
「……昔?」
「若い頃、会社の金を横領した。最初はすぐ返すつもりだったが、結局返せずにバレた。信用も地位も一瞬で消えたよ。」
健は心臓が跳ねた。まるで自分の内面を鏡で映されたようだった。
「なあ佐藤君。お前、いくら抜いたんだ?」
「……どういう意味ですか。」
「目つきだよ。金を抜いてる奴は、金を数える目をしてる。自分に問いかけてみろ。──眠れてるか?」
健は視線を落とした。返事はできない。それだけで答えは見抜かれていた。
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第四章 加藤の告白
「俺はな、三十の時に横領で会社をクビになった。親にも見放され、友人も離れた。だけどな、バレる前の半年が一番きつかった。」
加藤の声は静かだが、言葉には鋭い重みがあった。
「食事もうまくない。夜は眠れない。人の目が全部監査役に見える。金を手にしても、幸せは一円も増えなかった。……お前、今まさにそうだろう。」
健の胸が痛んだ。図星だった。
「じゃあ…どうしたらいいんですか。」
「正直に言え。そして返せ。時間がかかってもいい。会社に頭を下げろ。プライドなんかより、自分の人生の方が大事だ。」
「でも……人生終わりますよね?」
「終わらん。」加藤の目がまっすぐに光る。
「俺は確かに終わったと思った。でも、人はやり直せる。大事なのは、自分で自分を見捨てないことだ。」
健は唇を噛み、視線を伏せた。
「……俺、怖いです。」
「怖くていい。その恐怖が、お前をまともな場所に戻す。」
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第五章 告白
翌日。健は会社に出社すると、すぐに上司に呼び出しを願い出た。
会議室で全てを話した瞬間、空気が凍った。怒声が飛び、机を叩かれた。
「何考えてるんだ!」「君は終わりだ!」
しかし不思議なことに、健の胸は少し軽くなっていた。
──逃げ場のない暗闇から、抜け出したのだ。
返済計画は厳しい。職場の視線は冷たい。同僚の一人は目を合わせなくなった。
だが、健は自分の手で少しずつ金を返し、誠意を示し続けた。
夜は眠れるようになった。食事の味も戻った。
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第六章 加藤の過去と再起
数週間後、健は再び喫茶店で加藤に会った。
「報告です。全部話しました。怒られましたけど、返済プランも組みました。」
加藤は静かに頷いた。
「よくやったな。」
「加藤さんは……どうやって立ち直ったんですか?」
加藤は少し遠くを見つめた。
「俺は家族も失った。妻は子供を連れて出て行った。友人も離れた。何もかも失った。でも、昔の上司が一人だけ俺を見捨てなかった。『やり直せ』って言ってくれた。……だから今こうして普通に働いてる。」
続けて加藤は言った。
「金なんて紙切れだ。信用を失うと、人間は砂みたいに崩れる。でも信用は、また積み上げられる。」
健は深くうなずいた。
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第七章 新しい一歩
数か月後。健は処分を受けながらも誠実に働き続けた。
返済はまだ半分以上残っているが、職場の空気は少しずつ変わってきた。上司の表情も、最初の怒りだけではなく、彼の努力を見守る色に変わりつつあった。
ある日、外回りの帰り道、健は通りすがりの子供の財布を拾って届ける場面に遭遇した。
「ありがとうございます!助りました!」と母親に頭を下げられる。
その瞬間、健は胸の奥が熱くなった。
──自分も、こうやって人の信頼に応える人間になりたい。
後日、健はあの喫茶店を訪れた。
「加藤さん、ありがとうございました。あなたの言葉がなかったら、きっと逃げ続けてました。」
加藤は穏やかに笑う。
「俺が昔、潰れかけた時に助けてくれた人がいた。今度は俺の番だっただけさ。」
「もう二度と道を外れません。」
「そうだ。それでいい。」
雨上がりの光が差し込む店内で、健は初めて心から笑った。
帳簿の数字だけでなく、自分の人生も正しく積み重ねていく──その第一歩を踏み出したのだった。