善悪の彼岸
中・・中大兄皇子 鎌・・中臣鎌足
倉・・蘇我倉山田石川麻呂 入・・蘇我入鹿
古・・古人大兄皇子 帝・・皇極天皇
三国の調。韓の国に存在する三韓、すなわち百済、高句麗、新羅、三国からの使者が我が国にやってきた折、とり行われる儀式。
鎌「蘇我殿、腰のものをこちらにお預けねがえるだろうか」
入「何故?」
鎌「神聖な儀式なれば、帯刀は許可されておりませんので」
見れば、中大兄皇子は刀を渡してから祭壇に足をかけている。ほかの者たちも同様にそれに続いている。何より眼前の中臣どのも何も身につけていない。よこをみやると古人皇子が小さくうなづいた。
皆が頭を地につけ、そして所定の位置に座る。入鹿は最前列。その後ろに両王子が位置している。
ミカドへの拝謁を済ませ、儀式の目玉、ミカドへの奏上をのこすのみとなった。担当するのは蘇我氏分家の蘇我倉山田石川麻呂である。
倉「かしこみ・・・かしこみ・・・もうしあげたてまつります・・・
なかほどまで読みあげたところで石川麻呂はのどにつかえたように低く唸るような声をだす。見ると額に大粒の汗をかいている。手元はふるえ、鳥肌がたっているようにもみえる。
入「長老殿、様子がおかしいようですが、いかがした」
分家といえども年長者。敬わないわけにはいかない。
倉「・・・ミカドを前にしてこのような大役、わたしには気が重いのだよ」
なにか釈然としない。なにか引っかかる。そもそもが当日に時刻をずらして儀式をとりおこなうというのが納得できない。雨が降るといっても儀式の時間を早めるだろうか。変更するにしても日を改めるのが普通ではないだろうか。何かおかしい。なにかあるのではないか。
後ろを見れば中大兄皇子が祭壇を降りている。靴を履き替えるその場所で、控えていた者たちから皇子はなにかを奪い取った。あれはなんだ。鈍く光る銀色の長物。あれは刀、そう刀だ。
「うおおおおお・・・」
次の瞬間、中大兄皇子が猛然と蘇我入鹿に切りかかる。入鹿はすんでのところで体をよじる。それにより急所を貫くはずだった刀は入鹿の左肩に命中した。
血が飛び散る。騒然とする一同。だが入鹿は冷静だった。
入「ミカドよ、なんの咎があってこのような暴挙がゆるされるのでしょう、ご子息をお沈めください」←ミカドは中大兄皇子のじつの母親である。
帝「息子よ、なにをしているのです。なんの大義があって蘇我殿にそのようなことを」
中「大儀ならあります、母上。そこの者は専横はなはだしい、帝位をねらっているのです。帝位をねらう不届き者を切り刻む。あなた様の位を守るための子の行いをなぜ邪魔だてするのです」
それきりミカドは黙り込み奥の方へとひっこんでしまった。
入「何をしている、皆の者、そのものをとらえないか」
かえってくる言葉はなく、みな何をするでもない。おかしい、ぜったいにおかしい。
「中臣の・・・いいやそれだけではないな・・謀ったな、みな、この私を殺そうというのか」
もうおそい。何もかもがておくれであった。
中「蘇我入鹿、その首もらいうける」
さながら天から降る雷が如く、皇子の放った剣戟は入鹿の首を両断した。
隆盛をきわめ、比するものが存在せぬほどの繁栄を謳歌していた。
絶頂にありながら、なおも求めた権勢はだが、一夜にして雨露と消えた。
一条の光が大地を照らす。そこには無数の血と怨嗟がうごめいている。
地雷復、一筋の光によって台地は国は回復していく。
その光の名は中大兄皇子。のちの世に天智天皇として知られる時代の寵児は、これもまた後世、乙巳の変として知られる暗殺事件によってはじめて世にその名を示した。
雨がつよくふっている。ごうごうとなる雨音にかき消され、かの者の慟哭はとどかない。首のない死体は野ざらしのまま放置され、決して顧みられることはない。
一つの時代がおわった。蘇我氏本家はじき断絶し、分家はつづくものの時代をうごかすだけの力はもうのこっていない。
改革が始まる。ミカドを中心としておこなわれていく種々の改革は大化の改新として歴史に名を刻むこことなる。だが、それはまたべつのはなしである。