虎に翼
在位23年、男はその一生を終えようとしていた。血を分けた弟が傍らに寄りそう。
「それでは兄上、私はこれで。くれぐれも一日も早いお体の回復をお祈りもうしあげます」
「ああ、・・・・娘のことを頼んだ。お前も達者でな」
答える男の声は冷たく、生気の失せた顔からは感情が感じられない。
弟と入れ替わるように現れるのは男の腹心。
「これで本当によろしかったので?」
腹心の声には怒気がまざっており、その言葉からは疑念がかくしきれない。
「ああ、問題ない・・後のことは、すべてそなたにまかせる・・・
なおも何かいいかけた腹心はだが、ひらきかけた口をとじた。主人の瞼はとじている。男の睡眠時間は日ごとに増し、起きている時間との間隔は着実に短くなっている。死期が近づいているのだ。
春。植物が目を出し、虫たちが土をでて活動をはじめるころ。
主人の寝所をあとにし、男は屋敷の外に出る。主人が寝たきりの今、政治を行えるのは彼しかいない。
男の視線の先、沈みゆく夕日がほのかに照らしているのは、男が仕える主人、その弟がひきいる一行であった。アリのむれのような集団には、走ってもとても追いつけそうにない。季節の風を肌に感じながら、消え入るような声で男がつぶやく。
「あれではまるで、虎に翼をつけて、野に放つようなものではないか」
風に消えるその言葉はだれの耳にも届くことはない。
だが果たして、その言葉が真実となることを、誰も知らない。