表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

咳をすると二人

作者: 雉白書屋

 ……昨日、傘を持っていかなかったのが悪かった。いや、正確には折り畳み傘を持っていたのだが、開いてみると、まるで轢死体のように無惨に壊れており、使い物にならなかったのだ。いつぞやの風が強い日に壊れたのを忘れていた。

 コンビニで新しい傘を買うことも考えたが、金が惜しくてやめた。結局、全身を濡らして帰宅し、その結果、風邪を引いたらしい。

 熱のせいか体がだるく、頭もぼんやりしている。喉は棘が刺さったように痛み、鼻水は垂れっぱなし。見上げた天井はぐ~るぐる。


「あーあ……ゴホッ……えっ」


「おっ」


「な……お、おれ……?」


 これは、いったいどういうことだ……。突然、目の前にもう一人の自分が現れたではないか。

 慌てて体を起こし、じっとそいつを見つめる。幻覚ではない。そこに立っているのは、間違いなく『おれ』だった。


「ど、どうなってるんだ……?」


 声を震わせて訊ねると、もう一人のおれは困惑した表情で応じた。


「それはおれも知りたい。お前、何をしたんだ? 思い返してみろ」


「何をって……布団で寝ていただけだ。それから、会社に連絡しなきゃと思って、電話に手を伸ばして、でも喉が痛くて――」


「あ、待て!」


「な、なんだよ」


「今、また咳をしようとしただろ」


「それがなんだ? 喉が痛いんだよ」


「たぶん、咳をしたせいで増えたんじゃないか? 危ない、また一人増えるところだったぞ」


「いや、そんなことあるわけないだろ……」


「だが、現におれがここにいるじゃないか」


 確かに、他に原因らしいものは思い当たらない。いや、そんなはずはないと思うのだが、熱でぼんやりした頭では反論する気力もなかった。

 もう一人のおれは健康そうで、風邪など引いていないようだった。おれだって風邪を引いてなければ、もっと冷静に話し合えたのに。悔しさがにじむが、目の前の自分は妙に理性的で落ち着いて見えるので、なんだか誇らしさを覚えた。妙な気分だった。


「おれが会社に行くべき……だな」


 もう一人のおれがそう言ったので、お願いすることにした。おれは休みたかったし、会社には行かねばならない。代わりに行ってくれるなら、ありがたい話だ。

 もう一人のおれは身支度を整え、出て行った。少し不満そうな顔をしているようにも見えたが、たぶんいつものことだろう。

 おれは窓から見送って、一安心して布団に戻った。


「……ゴホッ」


「……おい」


「……」


「おい、なんで咳をしたんだよ」


 目を開けると、もう一人のおれが布団の中にいた。肘をつき、不機嫌そうにおれを見下ろしている。


「咳をしたら増えるかもしれないって、さっき話しただろ? なぜ、わざと咳をしたんだ」


「あ、その言い方だと、直前まで記憶は共有されてるんだな」


「いいんだよ、そんなことは。なんで咳をしたんだ」


「それは、喉が痛いからに決まってるだろう。我慢できなかったんだよ」


「嘘つくなよ」


「嘘じゃないって」


「無駄だ。誰に嘘をついてると思ってる? おれだぞ」


 そう言って、もう一人のおれはおれの頭を撫でた。その表情はどこか哀れむようだった。

 胸が締めつけられ、思わず涙がこぼれた。

 おれは泣きながら訊ねた。


「おれは……孤独なのか?」


 もう一人のおれは何も答えなかった。

 また咳をした。すると、さらにもう一人のおれが現れた。

 そのおれが、後ろからそっと、おれを抱きしめた。

 おれはまた咳をした。

 また咳をした。

 また咳をした。

 また咳を……。

 咳を……。

 咳しか出なかった。



「おい、これはどういうことだ」


 仕事から帰ったおれは、絶句した。

 部屋の中にはおれが何人もおり、風邪を引いていたおれは布団の中で死んでいたのだ。

 その首には、くっきりと絞められた跡があった。


「ああ、仕方がなかったんだ」

「そうそう、あいつは寂しさに耐えきれず、死にたいと思っていたからな」

「そんなあいつから生まれたおれたちは、あいつを楽にしてやることしか考えられなかったんだ」


「そうかあ……」


 おれはぽつりと呟いた。


「結局、咳をしても一人ぼっちだったってことか」


 そう言うと、おれたちは一斉に笑った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ