咳をすると二人
……昨日、傘を持っていかなかったのが悪かった。いや、正確には折り畳み傘を持っていたのだが、開いてみると、まるで轢死体のように無惨に壊れており、使い物にならなかったのだ。いつぞやの風が強い日に壊れたのを忘れていた。
コンビニで新しい傘を買うことも考えたが、金が惜しくてやめた。結局、全身を濡らして帰宅し、その結果、風邪を引いたらしい。
熱のせいか体がだるく、頭もぼんやりしている。喉は棘が刺さったように痛み、鼻水は垂れっぱなし。見上げた天井はぐ~るぐる。
「あーあ……ゴホッ……えっ」
「おっ」
「な……お、おれ……?」
これは、いったいどういうことだ……。突然、目の前にもう一人の自分が現れたではないか。
慌てて体を起こし、じっとそいつを見つめる。幻覚ではない。そこに立っているのは、間違いなく『おれ』だった。
「ど、どうなってるんだ……?」
声を震わせて訊ねると、もう一人のおれは困惑した表情で応じた。
「それはおれも知りたい。お前、何をしたんだ? 思い返してみろ」
「何をって……布団で寝ていただけだ。それから、会社に連絡しなきゃと思って、電話に手を伸ばして、でも喉が痛くて――」
「あ、待て!」
「な、なんだよ」
「今、また咳をしようとしただろ」
「それがなんだ? 喉が痛いんだよ」
「たぶん、咳をしたせいで増えたんじゃないか? 危ない、また一人増えるところだったぞ」
「いや、そんなことあるわけないだろ……」
「だが、現におれがここにいるじゃないか」
確かに、他に原因らしいものは思い当たらない。いや、そんなはずはないと思うのだが、熱でぼんやりした頭では反論する気力もなかった。
もう一人のおれは健康そうで、風邪など引いていないようだった。おれだって風邪を引いてなければ、もっと冷静に話し合えたのに。悔しさがにじむが、目の前の自分は妙に理性的で落ち着いて見えるので、なんだか誇らしさを覚えた。妙な気分だった。
「おれが会社に行くべき……だな」
もう一人のおれがそう言ったので、お願いすることにした。おれは休みたかったし、会社には行かねばならない。代わりに行ってくれるなら、ありがたい話だ。
もう一人のおれは身支度を整え、出て行った。少し不満そうな顔をしているようにも見えたが、たぶんいつものことだろう。
おれは窓から見送って、一安心して布団に戻った。
「……ゴホッ」
「……おい」
「……」
「おい、なんで咳をしたんだよ」
目を開けると、もう一人のおれが布団の中にいた。肘をつき、不機嫌そうにおれを見下ろしている。
「咳をしたら増えるかもしれないって、さっき話しただろ? なぜ、わざと咳をしたんだ」
「あ、その言い方だと、直前まで記憶は共有されてるんだな」
「いいんだよ、そんなことは。なんで咳をしたんだ」
「それは、喉が痛いからに決まってるだろう。我慢できなかったんだよ」
「嘘つくなよ」
「嘘じゃないって」
「無駄だ。誰に嘘をついてると思ってる? おれだぞ」
そう言って、もう一人のおれはおれの頭を撫でた。その表情はどこか哀れむようだった。
胸が締めつけられ、思わず涙がこぼれた。
おれは泣きながら訊ねた。
「おれは……孤独なのか?」
もう一人のおれは何も答えなかった。
また咳をした。すると、さらにもう一人のおれが現れた。
そのおれが、後ろからそっと、おれを抱きしめた。
おれはまた咳をした。
また咳をした。
また咳をした。
また咳を……。
咳を……。
咳しか出なかった。
「おい、これはどういうことだ」
仕事から帰ったおれは、絶句した。
部屋の中にはおれが何人もおり、風邪を引いていたおれは布団の中で死んでいたのだ。
その首には、くっきりと絞められた跡があった。
「ああ、仕方がなかったんだ」
「そうそう、あいつは寂しさに耐えきれず、死にたいと思っていたからな」
「そんなあいつから生まれたおれたちは、あいつを楽にしてやることしか考えられなかったんだ」
「そうかあ……」
おれはぽつりと呟いた。
「結局、咳をしても一人ぼっちだったってことか」
そう言うと、おれたちは一斉に笑った。