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「……ひでー話だよ」道路標識の前で独り言ちる。「俺、結構頑張ったよな?」
宮田朝菜の死から一年。
命日である今日、久しぶりに近所のコンビニに寄った俺は、あの日立ち読みした物と同じ少年紙を買い、事故現場に供えていた。
一年前のあの日。
必死こいて救命活動に勤しんだにも関わらず、彼女は搬送先の病院であっけなくその命を落とした。
ショックだった。なんて言葉だけで片づけられるものではなかったが、あの時はそれ以外の例えを浮かべる気力すら湧かなかった。
あの日の俺は自負を抱いていた。
適切な処置を行ったと言う自負。片隅では、病室で目覚めた彼女に感謝され、一目惚れされるなんて妄想を描いていたぐらいだ。
だけど、彼女は死んだ。助けられなかった。百を超える胸部圧迫も、十を超える人工呼吸も、その全てが無駄に終わったんだ。
事故の直後は酷く落ち込んだ。一週間近く家に引きこもっていたし、夢にまで見た大学生活だって全然楽しめなかった。
一年経った今も、この道を通ると具合が悪くなるくらいには引きずっている。
それでも、彼女の死に一番近かった俺が、命日である今日、ここに来ないのは違う気がした。
手を合わせ、黙祷を捧げる。
閉じた瞼に涙が溜まり、隙間から零れ落ちる。
「……ごめんな」
それに答える声はない。
再び黙祷に入った時、背後から足音が聞こえてきた。ゆっくりとした歩調で、ちょうど真後ろで止まる。
袖口で目元を拭い、譲る様に半歩ずれる。
「ありがとうございます」と、覇気のない男性の声が隣から聞こえてくる。「この漫画本は君が?」
「……はい」
答え、自分の声にも覇気がないことに気付く。
「そうですか」
薄目で隣の男を見る。
スーツ姿の……、いや、こういう場合は喪服と言うべきだろうか。真っ黒な服を着た中年の男性で、声色同様、その表情にも活気は見られなかった。
「もう一年。いえ、まだ一年。と言えば良いのだろうか」問いかけにも聞こえる言葉だったが、それに答えることはしなかった。「……朝菜」
男は消え入るような声で呟き、手に持った献花を供えた。
そこまで見届け、薄く開いていた瞼を閉じる。
数分か、或いはそれ以上。
長い沈黙の後、目を開ける。
目的は終えた。
一言断りを入れ、帰路に着こうとした時、男が供えたばかりの献花を回収する姿を目撃した。
「それ、持って帰っちゃうんですか?」
雑談に花を咲かせたいと言う気分でもなかったが、どうしても気になり、口を開いてしまう。
「はい」男は頷く。「置いて帰っても、数日もしない内に雨風に晒されて駄目になってしまうし、強風に煽られれば道路に転がって車に轢かれる。だから、そうならないよう持って帰るんです」
「そうですか……」俯き、自分の供え物を見る。「じゃあ、俺のも雨に濡れたら良くないんで、持って帰ります」
少年紙を脇に抱えた時、彼女が亡くなった場所が空虚へと変わり、一層悲しくなった。
「俺、帰りますね」
喪服の男性に頭を下げ、踵を返す。
「今日はありがとうございました。娘の為に」
「……娘」不意の言葉に、足が止まる。「宮田の……、朝菜さんの親父さんですか?」
「ええ」
背後から聞こえる肯定の声が、胸に刺さる。
罪悪感に、心が潰されそうになった。
「……そう、なんですか」
迷ってしまう。
このままなにも告げずに帰路に着くか、振り返り、自分の過ちを吐露するか。
「あの……」だが、結局は振り返り、彼女の父親と対面してしまう。「俺、あなたに言わないといけないことがあるんです」
「なんでしょう?」
彼女の父親が答える。
言ってどうする?
全てを吐き出して、彼女の父親の怒りを買い、自分だけ楽になるつもりか?
自身の矮小さに涙が出るが、口は止まらなかった。
「……彼女の名前が、思い出せなかったんです」あの日の後悔と悲しみが、自分への恥じと怒りが、涙を更に駆り立てる。「俺が名前を思い出せなかったせいで、アイツを死に追いやってしまった……」
泣き崩れ、すぐにこんな説明では理解してもらえないと気付く。
だが、嗚咽に邪魔をされ、上手く声が出せない。
「君のせいじゃない」嘘みたいな優しい声が聞こえてきた。「きっと、君は悪くない」
彼女の父親が、俺の肩に手を置いてくる。
涙でぼやけているが、その表情は柔らかく見えた。
「違う……」その優しさが、今の俺には辛かった。「俺があの日、さっさと名前を思い出して、それでアイツに一言声を掛けていれば、事故なんて起きなかったんです!」
みっともなく、叫ぶ。
「そんなことはない」
それでも、彼女の父親は俺を擁護した。
「ちが――」
「そもそも、朝菜の死は事故じゃないんだ」
「……え?」
事故じゃない?
そんなはずはない。アイツが軽トラックで撥ねられる瞬間を、俺はこの目で見たんだ。
確認する様に事故の瞬間を思い出し、そのせいで吐き気に襲われる。
「君はあまりニュースを見ないんだね。いや、罪悪感で見られなくなったと言った方が正しいかな」彼女の父親は言う。「朝菜はたまたま事故に遭ったわけじゃない。自ら身を投じ、自殺したんだ」
「自殺……」反芻し、最悪な気分になる。「……なんでだよ」
小・中学と思い出す宮田の姿に、自殺を想起させる場面などなかった。
「……なんでだろうね」彼女の父親は溜息を吐いた。酷く沈鬱とした、生気を捨て去るような溜息だった。「朝菜は一人で抱える子だった。笑顔の裏に苦悩を隠し、それを悟られまいとするのが上手……、いや、親である僕たちがそれに気づくのが下手だったんだ。交友関係の歪み、勉学のストレス、失恋の傷、将来への不満、それらが限界を超え、自ら命を絶った」
そう書いてあった。と彼女の父親は続けた。
「どうやら君は、朝菜が命を絶った時に近くにいたみたいだね。そこでボタンの掛け違いがあったとしても、それを気に病む必要はない。あの日にはもう……、朝菜の意思は固まっていたと思うから」
「違う」かぶりを振るう。「いや、違ってなくても同じだ」
「……え?」
涙で歪んだ視界のまま、彼女の父親の瞳を真っすぐに見つめる。
「そんな安っぽい慰めはいらないから、親が娘の自殺を肯定しないでくれよ」溢れ出る涙をそのままに、胸倉を掴む。「俺はアイツを救えなかったんだ。絶望の中で蹲るアイツに一声かけてやることも出来ず、死に掛けたアイツの心臓を呼び戻すことだって、俺には出来なかったんだ!」
心肺蘇生を行った時の事が今でも忘れられない。まるで、自分の掌が彼女の心臓を押し潰しているのだと錯覚してしまうあの感触が、今でも俺を苦しめる。
「……君が、朝菜の心肺蘇生をしてくれたんだね」そう言うと、彼女の父親はもう片方の手も俺の肩に置いた。「ありがとう」
「……へ?」
思いがけない言葉に、素っ頓狂な声が出てしまう。
「慰めの言葉は撤回する。代わりに、感謝の気持ちを伝えさせてくれ」肩に置いた手が背中に回り、俺を抱きしめる。「朝菜を助けようとしてくれて、本当にありがとう」
「……でも、俺」
彼女を助けられなかった。
そう伝えたいのに、溢れ出る涙に邪魔されて声が出ない。
「良いんだ」掻き抱く力が強まる。「娘は助からなかった。でも、朝菜を助けようとした君の行いが、僕の心を救ってくれた」
いかにも偽善ぶった言葉だと言うのに、俺は号泣するほど嬉しかった。
いや、嬉しいとは少し違う。
そう、救われた気分になったんだ。
最善を尽くし、それでも彼女を救えなかった。だけど、俺の行動は結果的に彼女の父親を救い、その果てに俺自身の心を救ってくれた。