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 高校を卒業してから一週間と数日。

 『高校卒業と同時にエロ本を買う』と言う崇高なる野望が打ち砕かれるも、一縷(いちる)の希望を残すことに成功したあの日から、俺は自動車学校に入り浸っていた。

 所々うたた寝してしまった基礎座学と、こちらは寝ぼける訳には行かない技能実習、つまり運転練習。それらを学校に通うつもりで朝から晩まで受講し続け、ちょうど今日、免許取得仮定の半分が終わった。

 目まぐるしく過ぎ去った日々を振り返った時、真っ先に浮かんだ感想は、「楽しかった」だった。エロ本を買う、と言う野望を胸に刻んでいた為もあるが、それだけではない。

 初めて運転する車は不思議な高揚感で満ちていたし、私服姿で授業を受ける行為自体、疑似的な大学生活を体験しているようで興奮した。

 筆記と実技の中間試験を一発合格できた時は、高校時代の馬鹿さ加減がひっくり返る様な全能感を得られもした。

 そんな充実した日々の暮れ、俺は近所のコンビニにふらりと立ち寄っていた。

 欠伸交じりに自動ドアをくぐり、大した目的もなく雑誌コーナーへ向かう。週刊連載の少年紙を手に取り、贔屓にしている幾つかの漫画に目を通す。

 ある作品はライバルとの白熱バトルを展開させ、またある作品はヒロインに愛の告白をぶつけていた。そうやって流すようにページを捲っていき、不意に、普段読まない作品が目に留まった。

 後列に位置する漫画で、お世辞にも絵柄が上手いとは言えなかった。その話に至るまでの背景を知らない為、人物像もなにもわからなかったが、それでも、瀕死の重傷を負う少女を涙ながらに治療する少年を見て、思い出す。

 それは、交通事故の現場とその後の応急措置の映像。

 中間試験合格の後、間髪入れずに視聴したそれは、ドライブレコーダーやスマートフォンの映像を繋ぎ合わせたもので、再現VTRなどではなく実際の事故現場だった。

 運転手目線で轢かれる老人。野次馬を掻き分けて応急処置に向かう青年。遅れてやって来る救急車。

 ショッキングなシーンも多く、所々視線を泳がせてしまった為に細部までは把握できなかったが、それでも、気が滅入る程度には思い出してしまう。

 軽く溜息を吐きつつ、少年紙を棚に戻す。

 お口直しに単行本コーナーにでも向かおうと思ったその時、視界の端に淫靡な気配を見た。

 エロ本だ。

 少年紙の二つ隣に陳列されたアダルト雑誌が、官能的なポーズを隠そうともせずにこちらを誘惑してくる。

 それを見てしまったが最後、身体は蛇に睨まれた蛙よろしく固定され、否が応でも裸体を凝視してしまう。

 指先は購入欲求に震え、喉からゴクリと言う音が漏れる。

 免許取得なんて面倒な過程はすっ飛ばして、コンビニでエロ本を買ってしまえ、と内なる悪魔が囁く。それに対抗する様に内なる天使が、本屋のおっぱいの大きいお姉さんとの約束を思い出して、と告げる。

「……おっぱい」

 本屋の女性店員が有する豊満な胸部を思い返し、かえってエロ本の購入欲求を強めてしまう。

 夢遊病患者さながらフラフラと腕を伸ばすが、指先が表紙に触れるかどうかの瀬戸際で我に返る。

 これこそが青少年の矜持だ、等と内心で漏らしつつ、それでもエロ本の前で無様な姿を晒していた事実を誰かに見られていないかと、周囲を警戒する。

 高校の友人なら笑い話の一つで済むが、久しく会っていない中学の知人に見られでもすれば……。

 あれこれと危惧しながら周囲に目を光らせている時、雑誌を立ち読みする女性の横顔が気に掛かった。

「お……」

 その陰鬱とした表情に一度は赤の他人と切り捨てたが、すぐに改める。

 俺は彼女を知っている。

 小・中と同じ学校に通い、時には同じクラスになった。もっと言えば、結構な頻度で会話を繰り広げていた時期もあったではないか。

 エロ本の前から一歩横にずれ、さも少年紙を読んでいた体を装う。その後に改めて彼女に声を掛けようとし、喉が止まる。

 ……あれ、彼女の名前なんだっけ?

 シンプルに田中だった気もするし、大河原みたいなテクニカルな苗字だった気もする。

 弓香ちゃん? 亜希っち? 

 上の名前が思い出せず、下の名前で検索するが、どれもピンとこない。

 思い出せないなら思い出せないで、「おー、久しぶりじゃん。元気してた?」みたいなノリで押し切る事も出来るが……。

 腕を組み、ついでに目も閉じる。

 モヤモヤを解消すべく苗字や下の名前を羅列させるが、一向に答えはでない。五十音順で一つずつ検証しようと思ったが、時間が掛かり過ぎるので途中で止める。

 仕方ない、と諦め半分に腕を解き、名前を忘れてしまった彼女の方を向く。

「おっと?」

 いない。

 さっきまでそこで小難しそうな本を読んでいたはずなのに、気が付くと彼女はこの場から消えていた。

 慌てて店内に目を向けるが、商品棚が邪魔で全体を把握できない。早足で店内を横切ろうとした時、自動ドアの開閉音が耳に入った。

 振り返ると、スーツ姿の男性が入店してきたところだった。

 見当外れだと視線を店内に戻そうとした時、男性の背後に人影が見えた。それは、歩道と車道の境目で左右を確認する彼女だった。

「なにか?」

 スーツ姿の男性が言う。

「あ、すみません。ちょっと外に知り合いが」

 一つ頭を下げ、急ぎ外に出る。

 偶然とはいえ、せっかく中学の知り合いと再会出来たんだ。このまま終わりじゃあんまりだ。

「おーい」一言二言の会話でも良い。せめて彼女の名前だけでも思い出さないと。「久しぶりー」

 声を掛けるが、彼女は振り返らない。横断歩道のない車道を進み、横切ろうとする。

「……え?」

 そして、一台の軽トラックに撥ねられた。

 鈍い音が響き、一瞬だけ浮いた身体が歩道に投げ出される。

「な……」

 なんだこれ。と言う言葉も出せない。

 呆然と、胸の中から聞こえる爆音に耳を傾けることしか出来なかった。

「……なんだよ、これ?」

 数秒遅れで、ようやく声が出る。しかし、唐突過ぎて身体が追い付かない。

 周囲から聞こえる悲鳴。アクセル音を響かせてUターンする軽トラック。道路に横たわる中学時代の友人。

 ……そうだ、軽トラのナンバーを控えないと。

 ふらりと一歩前に出て、そんなことをしている場合ではないとようやく気付く。

「おい!」歩道に横たわる彼女の下へ向かい、肩を叩く。「大丈夫か!」

 返事はない。

「返事しろって!」

 いくら叫びかけても、彼女は目を開けない。口を開かない

 まるで、死んでいるみたいだ。

「ああ、くそ!」

 そんな考えが過った瞬間、思考が馬鹿みたいに回り始めた。

 昨日食べた夕飯が突然浮かんだかと思えば、高校時代の友人たちの顔が次々とフラッシュバックされる。

 だが、瞬く間に切り替わる情報の中にも、彼女の名前はない。

 それでも、数時間前に見せられた事故現場の映像が流れついた時、どうにかそれを固定することが出来た。

 そうだよ。クソが。俺は応急処置の心得を持ってんだろうが!

「誰か! 誰か手を貸してくれ!」

 応援を呼び、彼女の容態を確認する。

 轢き飛ばされたことで腕や顔、露出した箇所に幾つもの擦り傷が確認できる。が、ドボドボと溢れるような酷い出血はない。

「生きてるよな!」

 再度の声掛けに反応がないことを踏まえ、「おっぱい触るけど、許してくれよ!」と一言謝り、彼女の胸元に手を当てる。

 本来あるはずの鼓動が感じられない。

 続けて、指先を彼女の鼻下に持っていき、呼吸に伴う空気の流れを確認する。が、こちらも無反応。

「……大丈夫。落ち着け」

 この状況、自動車学校で見た事故の映像と一緒だ。つまり、ここから取るべき最善手だって俺は知ってる。

 震えながら深呼吸を行い、袖をたくし上げる。その時、「ひき逃げか?」と言う声が背後から聞こえてきた。

 振り返ると、コンビニの入り口ですれ違ったスーツ姿の男性がいた。

「はい」頷き、「今から心肺蘇生をするんで、救急車とAEDの手配をお願いします!」と指示を飛ばす。

「わかった」

 スーツ姿の男性は、その身なりに違わない冷静な面持ちで相槌を打つと、ポケットからスマートフォンを取り出しつつ、コンビニへと走った。

「人命救助しちゃおっかな!」

 わざと軽口を叩き、彼女の胸元で掌を重ねる。

「ただ重ねるんじゃなくて、上の手は下の手を絡めるようにして……」掌の真ん中じゃなく、手首に近い位置に重心を置く。「んで、肘は真っすぐに伸ばす!」

 身体全体を落とす様に、掌を深く沈める。

 瞬間、冷や汗が出る程に彼女の胸がへこんだ。

 ……いや、これで良い。練習用の人形だってこれくらいへこんでただろ。

 言い聞かせ、心臓マッサージを続ける。

 一、二、三、四、五……。

 ペースは一分間に百回。つまり一秒に一回じゃ足りない。二秒で三回の速さを維持する。

 六、七、八、九、十、十一……。

 十回を終える頃には、すでに額から汗が滲んでいた。

 十二、十三、十四、十五、十六……。

 真っ直ぐだ。ブレれば心臓をきちんと圧迫できない。

 十七、十八、十九、二十……。

 クソ、どうしても肘が曲がっちまう。

 二十一、二十二、二十三……。

 ごめんな。俺が名前を思い出せなかったばっかりに……。

 二十四、二十五、二十六、二十七、二十八、二十九……。

 その代わりにちゃんと助けてやるからな。惚れてもいいんだぜ?

 三十、三十一、三十二、三十三……。

「っと、三十超えたら人工呼吸だったな」額の汗を拭い、胸ポケットの内側に手を入れる。「ほんと、至れり尽くせりだよな」

 取り出したのは、直径五センチ程に折りたたまれた突起付きのシート。それを広げ、彼女の顔に覆いかぶせる。

「安心しろって。俺のファーストキス、お前にはくれてやんねえからさ」

 突起部分を彼女に咥えさせ、準備は完了。後は空洞になっている突起の反対側から息を吹きかけるだけだ。

 人工呼吸用のマウスシート。応急処置の講習の終わりに無料配布された物だ。

 気道確保。つまり、吹きかけた息をきちんと肺まで届ける為に、顎を上げ、鼻をつまむ。

 深呼吸の要領で息を深く吸い、マウスシートの穴に吐き出す。その際、胸に視線を送り、胸部が膨らんでいるかの確認も怠らない。

 もう一度吹き込み、心臓マッサージに戻る。

 心臓マッサージ、人工呼吸、心臓マッサージ、人工呼吸と計三セット終えた辺りで、スーツ姿の男性とコンビニ店員がやって来た。

「も、持ってきました」

 気弱そうなコンビニ店員はそう言うと、手にした真っ赤な手提げバッグを差し出した。

 ハートの中にイナズマのロゴが描かれたそれはAEDと呼ばれる代物で、原理はよくわからないがとにかく心臓を蘇生することが出来るはずだ。

「助かります!」

 受け取り、中身を取り出した時、酷い疲労感に襲われた。

 たった九十回の押し込みと六回の吹き込みしかしていないのに、息は絶え絶えで、汗もボタボタと落ちている。

 出来ることなら一度休憩を挟みたかった。だが、そんな悠長なことも言っていられない。

 ボタンを押し、ゆったりとした機械音を無視してコードに繋がれた二枚のシートを取り出す。

「脱がすけど、セクハラで訴えないでくれよ」

 上着のボタンを外し、はだけた胸の上部と脇腹辺りにシートを張り付ける。

『心電図を調べています。患者に触らないでください』酷くじれったい待ち時間の後、『電気ショックが必要です。患者から離れ、ショックボタンを押してください』と言うアナウンスが流れる。

 言われた通りに一歩引き、赤く点滅したハートマークのボタンを押す。

 ピー。と言う電子音が鳴り、『ショックが完了しました。ただちに胸骨圧迫と人工呼吸を行ってください』と指示される。

「変わろうか?」

 整わない呼吸のまま心臓マッサージを再開しようとした時、スーツ姿の男性がスマートフォンを耳に当てたまま、小声で言った。

「……いえ、俺がやります」

 俺の罪、って言うのは言い過ぎかもしれないけど……。

 俺が名前を思い出せていたのなら。そうでなくても、彼女がコンビニを出る前に声を掛けていたのなら、こうはならなかったかもしれない。

 だから、余力の全てが尽きるまで、他の誰かに託したくはなかった。

 掌を重ね、肘を伸ばす。何度も何度も体重を落とし、彼女の鼓動を肩代わりする。

 顎を上げ、鼻を摘まむ。大きく息を吹き込み、彼女の呼吸を肩代わりする。

 何度も、何度も、何度も、何度も……。

 やがて救急車のサイレンが聞こえ、俺は意識を失った。



 翌日、俺は朝のニュースで彼女の名前を思い出し、同時に彼女の死を知った。

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