起
「お願いします!」
思いがけず出てしまった大声。
ハーフリムの眼鏡をかけた女性店員は僅かに目を見張るが、すぐに表情を改め、レジに置かれたそれに視線を落とす。
何かと言えば、エロ本だ。
「申し訳ありません。学生のお客様には販売出来ない決まりが――」
「大丈夫!」店員の言葉を遮って、制服の胸ポケットに差し込まれた造花を指差す。「俺、もう学生じゃないんで! 今しがた、卒業してきたんで!」
背負ったカバンを下し、中から丸筒を取り出す。真っ黒の表面に古木の割れ目模様が描かれたその中には、卒業証書が入っている。
筒を開け、中身を取り出そうとするが、女性店員に鋭い声で、「結構です」と制される。
「いやいや、こいつを見てもらえれば、俺が卒業生だってことが一発で――」
「お客様が卒業生であるかどうかは問題ありません。いえ、むしろ卒業生であると証明されてしまうことこそが大きな問題なのです」
「ど、どゆこと?」
女性店員の頓智じみた言い回しに、思わず首を傾げてしまう。
暫し考え、左に傾げた首を右に変え、ついでに筒を鞄に戻した辺りで、女性店員がコホンと空咳をした。
「こちらの様なアダルト商品を販売する際は、『十八歳以上』であり、『学生ではない』と言う決まりがあります」
「だから、俺もう十八だし、今日で卒業だから――」
「それです」
「それ?」
「お客様は、その制服が物語っている様にまだ学生です。『帰るまでが遠足』と言う言葉がある様に、帰路に着き、私服を身に纏うまでこちらの商品は売れません」
「それって、一度帰って、普段着に着替えて戻ってくれば売ってくれるってこと?」
右に傾けた首を正しながら聞くが、それでも女性店員は首を横に振った。
「一度私服に着替えてしまえば、お客様の身分を証明する物がなくなります。故に、今度はそれを提示しなければなりません。それも、顔写真付きの」
「顔写真付きの身分を証明する物……」呟き、「あ、それなら生徒手帳があるじゃん」と内ポケットに手を入れるが、またしても制止される。
「ですから、それはお客様が学生であると証明する物に過ぎません」
「卒業証書とセットでもダメ?」
「駄目です」
「後生でも?」
「後生でもです」
「ケチ?」
「ケチで結構。これが私の仕事ですから」
「マジかー」ちらりと背後を振り返り、幸いながら誰も並んでいないことを確認する。「どうしても、エロ本を買いたいんです」
真剣さをアピール為、目を見開いて前のめりになる。その時、女性店員のバストが購入予定のエロ本よりも豊満だと気付く。
「……どこを見ているんですか?」
「おっぱいを……」無意識に口走った後で、「あ、いや、エロ本のを、です」と姿勢を正す。
「全く……」女性店員は目を細め、「マイナンバーカードかパスポート、或いは運転免許証。そのどれか一つでも持っていませんか?」と言った。
「何一つ持ってません!」
高らかに宣言すると、女性店員はとても深い溜息を吐いた。
「……他に身分証になるのとかあったっけ?」そう呟いた後で、あ、と閃きを想起させる声を上げた。「差し支えなければ、お客様の卒業後の進路を伺ってもよろしいでしょうか」
「楽しい楽しいキャンパスライフだけど?」
「でしたら、大学から学生証を交付されていませんか? それなら生徒手帳同様、顔写真付きの身分証として適応できますが」
「まだ貰ってない」
首をブンブンと振るうと、女性店員はがっくりと項垂れてしまった。
「……あたしの時は在学中に諸々送られてきたんですけど」
「中々どうして、上手くいかないもんですな」
落ち込む女性店員に慰めの言葉を掛けると、彼女は徐に顔を上げ、恨み顔でこちらを睨んできた。が、すぐに店員の模範とも言える愛想笑いを作り、「では、大学から学生証が交付された後、お越しください」と言った。
「え? それじゃあ、その学生証を貰えるまでエロ本はお預けってこと?」
「そうなりますね」
「いつ貰えるの?」
「さあ?」女性店員は眼鏡をクイッと上げると、怖いくらいの笑顔で言った。「早ければ今日中にでも郵便物として届いているでしょうし、遅くても大学が始まった頃には貰えるんじゃないですか?」
「さ、最悪一カ月待ち……」
絶望。いや、それすらも凌駕する悲劇的な現実を突きつけられ、内心で阿鼻叫喚が鳴り響く。
視界は歪み、眼前にあったはずのおっぱい畑が剣山へと変わった。
一秒一歩と歩みは続けられ、その度に足裏だけでなく全身に針が突き立てられる。
何故全身に? と問われれば、這いつくばっているからだと答える他ない。当然だ。俺は豊満なる谷間へとその身を沈めていたのだから。だが、無情にもおっぱいは時の剣へと姿を変え、俺は剣山を這い進む亡者へとなり下がった。
二十四時間を秒へと換算した数の針の山を、三十近く登攀しなければならない。それが俺に課せられた無慈悲なる業。
「一カ月、我慢できないんですか?」
不意に聞こえた女性店員の言葉は、さながら天から伸びる蜘蛛の糸だった。
「できません!」
縋る気持ちで答えると、女性店員は小さく息を吐き、その後で微笑んだ。
「でしたら、前述した身分証、そのどれかを取得するのが最善かと」
「それって、なんちゃらカードとか、パスポートとかのこと?」
「はい。マイナンバーカード、パスポート、運転免許証、それらなら、一カ月以内に取得できるかと。と言っても、どれも数日で取得できるものではありませんし、手続きや費用が掛かりますよ」
「お金に糸目はつけません!」今更ながら、人目をはばからず叫ぶ。「最短コースを教えてください!」
「でしたら、パスポートが一番だと思います。私が以前申請した時は、十日くらいで届いたと記憶しています」
「おお!」
それならば、時間と言う名の剣山を越える数も、当初の三分の一になる。
そうと決まれば。と、早々にこの場を後にしようとした時、「ですが……」と女性店員が不穏な前置きを入れた。
「申請費用として、一万円は掛かります」
「いちまん!?」
「正確には、五年間有効で一万千円。十年は一万六千円です」
「ぼったくりじゃん!」一万円もあれば、それこそ眼前のエロ本を枕にして寝ることだって可能だ。「他の方法を所望します!」
「お金に糸目はつけないのでは?」
女性店員がいたずらっぽく尋ねてくるが、無理なものは無理だ。
「すみません。調子に乗りました。お年玉とどっこいどっこいの買い物なんてとてもじゃないけど払えません」
「意外と少ないんですね」
ニンマリ笑顔を見せる女性店員。
なんだか、嫌に上機嫌になってる気がする。
「お金に糸目はつけますんで、出来れば安い値段でお願いします」
「そうなってくると、マイナンバーカードが順当ですかね」
「安い?」
「安いどころか、ほとんど無料です。市役所から定期的に書類が郵送されるはずなので、そこに住所氏名等々を記入して投函するだけ。返信用の封筒も向こう持ちなので、切手代も要りません」
「おお!」
パスポートの時と同じ反応が出た辺りで、嫌な予感を覚える。
「強いて欠点を言うのなら、申請してから届くまで、最短でも一カ月は掛かる点でしょうか」
「駄目じゃねーか!」
学生証コースと同じ、いや、最短と言う口ぶりからして、多分もっと遅くなるのだろう。
「中々どうして、上手くいかないものですね」
どこかで聞いた気がするフレーズで励まされ、一層悲しくなる。
「……運転免許証には、一体どんな罠があるんですか?」
疑心暗鬼になりながら聞くと、女性店員は微笑みながら言った。
「お金と時間、双方ともに容易くはないでしょう。ですが、見方を変えればお客様に一番適した手段かもしれません」
「また頓智?」
「いいえ」女性店員は優しく首を振った。「まずは時間。自動車教習所は大学と同じ単位制なので、自分のペースで受講できます。数カ月かけてゆっくり取る人もいれば、一日のうちにいくつも受講し、早々に免許を取得しようとする人と、多岐にわたります。私の知り合いは二週間そこそこだったと記憶しています」
思わず、「おお!」と言いそうになるのをどうにか堪え、「でも、お高いんでしょ?」と通販番組さながらの台詞を吐く。
「ご安心ください」女性店員も、そんなノリに付き合うように言った。「お客様だけでは少々難儀する額ではありますが、ご両親の力を借りれば問題ありません」
「父ちゃんと母ちゃんの?」
脳内で両親に、「エロ本買いたいから自動車学校に通わせて」と言ってみる。
結果はと言えば、当然ながら拳骨の雨だった。
想像のたんこぶを優しく摩っていると、女性店員が口元を隠すように笑い始めた。
どうやら、心内のみと思っていた言葉が声に出てしまったらしい。
「なにもそこまで正直に言う必要はありません。『大学生になるんだし、就活にも有利な自動車の免許を取りたい』等の方便で攻めてはどうですか?」
「天才かよ!」
分厚く高い壁の突破方法がわかった時には、すでにそれを行動に移したくてうずうずしていた。
善は急げだ。
「お姉さん!」
「お姉さん? え、私?」
「他に誰がいるんですか!」レジに置かれたままのエロ本を手に取り、女性店員に差し出す。「俺、速攻で車の免許を取って、そんで、もう一回そのエロ本を買いに来ます! だから、それまでこのエロ本をお姉さんに預けます!」
「え、預けるって、普通に棚に戻して――」
「このエロ本を俺のことだと思って待っててください!」
女性店員の返事を待たず、俺はレジを飛び出した。目指すは自動車学校とやら。いや、その前に両親の説得か。
何でもいい。今はただ、この胸の高鳴りに合わせて走るだけだ。