鳥は空へと溶けて消え
この世界には空の国の言い伝えがあります。
私たちのいる地上の国。雲の上に広がる空の国。
そこには私たちの同じように子供も大人も暮らしていて。
私たちから空の国は見えないけれど、空の国にいる人はいつも私たちのことを見ている。
たまに、道端に片っぽだけの靴や手袋なんかが落ちていませんか?
あれは空の国の人の落とし物かもしれません。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「ねえサニアちゃん。あれ、人の手かな?」
イルは道の横に広がる砂浜を指差し尋ねました。
「んん?どこよ?」
視力の悪いサニアは立ち止まってじいーっと目を細め、汚れた砂浜とその先の美しい海を眺めます。けれどもどこにも人の手は見えません。
「あれだよあれ。ほら、こっちこっち!」
そう言うやいなやイルはアスファルトの道を外れ、砂浜の上へと飛び降り駆け出します。
「あ!また!待ちなさいイル!」
サニアも慌てて砂浜に降りてイルを追います。サニアが見張ってないとイルは何をしでかすかわかりません。いつも何かするのはイルなのにサニアもまとめて怒られるので必死なのです。
イルは高く登った夏の太陽をいっぱいに浴びながらズンズンと砂浜を走っていきます。
「ほらこれ!あったあった!あったよサニアちゃん!」
イルはそう叫ぶと立ち止まって振り返ります。サニアも息を切らしながらイルに追いつきました。
「もう!学校帰りに寄り道したらダメっていつもシスターに言われてるでしょ!?」
「ねえほら、これ。人の手かなあ?」
「もう、あんたは人の話を……」
そう言いながら足元を見てサニアはぎくりとしました。ボロボロの手袋をはめた人の手が砂浜に埋まっているのです。指の部分だけ砂から外に飛び出していて、まるで埋まっている人が助けを求め手を伸ばしているかのようです。
しかし、よく見るとそれはただ手袋が埋まっているだけのようにも見えました。
「こんなの……ただの手袋よ」
「引っ張ってみていい?」
「ちょっと!ダメよ!」
サニアは、しゃがみ込んで今にもその『人の手』に触ろうとするイルを慌てて止めます。「どうしてもって言うなら私がやるからあんたは触っちゃだめ!」
イルは大人しく出した手を引っ込めます。いつもは自由奔放で人の言うことを聞かないイルもサニアが真面目に叱っているのがわかるとちゃんと言うことを聞きます。
「じゃあ、引っぱるわよ……」
「うん。サニアちゃん頑張って!」
サニアがごくりと唾を呑みます。サニアはイルより二歳だけお姉さんなのでこんな時は必ず自分が前に立ってくれるのです。
「これはただの手袋……これはただの手袋……ぜったいに手袋……」
目を瞑って、小さな声で呪文のように唱えながら両手でその手袋を掴むと、そのままひと思いにえいやっと引っ張りました。
「おー!!」
イルはパチパチと手を叩いて歓声を上げます。
力一杯引っ張ったせいで、サニアはその場に尻餅をついてしまいました。
「サニアちゃん見て見て!言った通りだったよ!」
イルの言葉に恐る恐る目を開き、サニアは自分の手に握られているものを見ます。そこにあったのは、やはりただの片っぽの手袋でした。
「サニアちゃんの言った通りだったね!人の手じゃなかった!」
イルが目をキラキラとさせながら言います。
「だ、だから言ったじゃない。ただの手袋だって」
フフンっと鼻を鳴らすサニアでしたが、汚れた手袋を力一杯に握りしめていることに気づいて慌ててその場に投げ捨てます。「さ、もう満足したでしょ。早く帰りましょ」
立ち上がりパタパタとお尻の砂をはたくサニア。
しかし、イルはしゃがみ込んで相変わらず目をキラキラさせたまま砂浜に落とされた手袋を見つめています。
「ねえ、サニアちゃん。これってお空の国の落とし物なのかな?」
「空の国?……あぁ、あのおとぎばなしね」
「おとぎばなし?」イルはつまみ上げた手袋を眺めながら尋ねます。
サニアは少しだけ大人っぽい声で答えました。
「そう。あんなのは子供のために作られたおとぎばなしなの。本当は空の国なんてないんだから」
「そんなことないもん。お空の国はあるもん」
「ないわよ」
「お母さん言ってたもん」
イルは少しムッとした様子で立ち上がりました。
「ないったらないの!これだから子供は!」
サニアは少し大きな声を出してしまいました。ハッと気づいた時にはもう遅く、イルの目はみるみる涙でいっぱいになっていきます。
「お空の国はあるんだもん……お母さん言ってたんだもん……」
口をへの字に結んで絞り出すように言葉を紡ぐイルにサニアは慌てて。
「わ、わかったわよ。もういいから早く帰りましょう。おやつがなくなっちゃうわよ」
そう言うとぐいっとイルの腕を引っ張り歩き出そうとします。しかしイルはその場に踏ん張って動こうとしません。
「もう!なんなの!」
黙ったままのイルにまた大きな声を出してしまうサニア。
イルは、下を向いたままサニアに掴まれていない方の手に持った手袋を差し出し言いました。「これ、椅子のおじさんのところに届ける」
「はあ?」
「これは、お空の国の人の落とし物だから。落とし物はおじさんのところに届けないとだから」
「だから、空の国なんて……」
そこまで言いかけてサニアは口をつぐみます。イルが小さな手で目を擦り始めたからです。サニアは少し考えてから言葉を続けました。
「そんな、手袋の落とし物なんて誰も探しに来ないわよ」
「でも、大切なものかもしれないから」
「そんなことしてたら本当におやつなくなっちゃうわよ?イルは、シスターに怒られて食べられなくなってもいいの?」
「いい。サニアちゃんは先に帰ってていいよ」
イルの答えにサニアはまたムッとしてしまいました。いつもイルのわがままに付き合わされて怒られるのはむしろサニアの方なのです。それに、今日は月に一度しかないチョコレートが出る日でした。
「じゃあもう勝手にしなさい!イルのことなんて知らない!チョコレートもイルの分まで食べちゃうんだから!」
そう言うとサニアはくるりとイルに背中を向けて教会の方へと帰り始めました。
途中立ち止まってチラリと振り返りましたが、イルは追ってくるでも声をあげて泣くでもなく手袋を握りしめたままその場に立っていたのでフンっとそのまま向き直り再び教会の方へと歩いてゆきました。
サニアと別れたイルは浜辺の端に立っている『椅子のおじさん』のいる場所に向かって歩き始めました。その場所は手袋を見つけた場所から実はあまり離れていないのですが、二人の住む教会とは反対の方向に位置していてまだ6歳のイルには随分と遠い場所に感じます。
鼻を啜りながら歩いているとカラスが集まって何かを貪っているのが見えます。イルは先ほどああは言ったものの外を一人で歩くのは久しぶりなのでちょっとだけ心細くなってしまいます。
「サニアちゃん……」
声に出すとまた涙が出そうになり慌ててゴシゴシと目を擦ります。
本当は綺麗な海沿いを歩いていこうと思ったのですが『砂浜を歩くと破片で怪我をするかもしれない』と先生に言われたことを思い出してアスファルトの道に戻ります。
一人で歩くアスファルト、道に開いた大きな穴をジャンプして、倒れたままの木をまたいで、痩せた野良犬に見つからないように壊れたブロックに隠れながら、目的地へと進みます。初めは怖かったこの一人旅も何だか冒険のように思えてきてイルは少しだけワクワクとしてきました。
小さな足を一歩一歩と前へ進めながら、砂浜とは反対の道沿いに散乱する瓦礫を眺め、壊れていない家を数えているといつの間にかおじさんの家へと到着していました。
「おじさんこんにちは!」
イルは入り口から顔をひょこっと出して大きな声で挨拶しました。
「おー?お前か」
おじさんはいつもの椅子に座って返事をしました。おじさんはいつもこの場所にいて困った人を助けたりするお仕事だとイルは聞かされています。
「どうしたんだイル。今日はサニアは一緒じゃないのか」
「うん。今日はひとりなの」
何となく辛くなって下を向いてモジモジと答えます。
「ふーん……で、どうしたんだ?何か用なのか?」
「あっ、これ!」
イルはここにきたワケを思い出して、大事に握りしめていた手袋を差し出します。
「おとし物なの」
おじさんは機械でできた椅子の大きな車輪をぐるぐると回してイルの前まで来ると、座ったままその手袋を優しく受け取ります。
「どうしたんだこれ?」
受け取った物をしげしげと見回しながらおじさんは尋ねます。
「海のとこに落ちてたの」
「砂浜にか……」
「あのね、これね……」
イルが不安げに目を落として何かを言おうとしているのでおじさんは首を傾げてイルを見つめます。
「お空の国のおとし物だと思うの!」
イルは思いきって叫びました。
「……空の国か」
おじさんはぽつりと呟くと、それから何も言わずに手袋を裏返したりしながらよく調べていました。イルは祈るような気持ちでおじさんの言葉を待ちます。
やがて、おじさんは手袋を座った自分の膝の上に丁寧に重ねると、ふーっとひとつ息をつきイルの目を見つめて優しい声で言いました。「確かに、これは空の国の人の落とし物だ」
「ほんとに!?」
イルの顔がパァーッと明るくなります。
「あぁ、間違いない。これはおじさんが責任を持って預かろう」
イルは嬉しくなってぴょんぴょんと飛び跳ねます。
「やっぱりお空の国はあったんだ!!」
「やっぱり?」
「うん!。あのね。むかし、お母さんがお空の国のお話をしてくれてたの。でもサニアちゃんがお空の国なんてないんだって言ってそれで……」
イルは興奮して話していましたが、自分を見つめるおじさんの目が少しだけ悲しそうにしているのに気づいて言葉をつぐみました。
「……それで、イルは帰ってサニアになんて言うんだ?」
「えっと……私は、サニアちゃんに……」
下を向いて言葉に詰まってしまったイルにおじさんは優しい声で語りかけます。
「イルは、サニアを言い負かしたいかい?空の国はあったんだぞって自慢したいかい?」
「ううん」
イルは小さく首を振り、顔を上げて言いました。「私はサニアちゃんと仲直りがしたい」
「うん。それでいい」
おじさんは嬉しそうに言いました。
「じゃあ、サニアになんて言えばいいかわかるね」
イルはおじさんの目を真っ直ぐに見つめて言いました。
「うん!」
「おじさんさようならー!」
「あぁ、手袋はちゃんとおじさんがこれを探してる人に届けるからな。気をつけて帰るんだぞ」
イルは元気よく交番を飛び出して行きました。
もう随分と西へと振れてきた太陽の光を浴びてグングンと進んで行くイルを、おじさんは外に出て見送りました。
彼女たちがこれから生きていかなければならないこの世界が今よりせめて少しでも優しくあるようにと、その小さな背中が見えなくなるまで、手袋を両手で強く握り、祈り続けました。
やがて、おじさんは車輪をまたぐるりと回し交番の中へと戻って行きます。こんな生活にもいつの間にか慣れてしまいました。おじさんは自分の机へと進みながらズボンのポッケから手帳を取り出します。数ページめくったところで机に備え付けられている受話器を取り、歪み滲んでいく手帳の数字と何度も見比べながら、震える指で丁寧にダイヤルを回しました。
「もしもし、隊長の奥様でしょうか……私は……はい、お久しぶりです……隊長には本当にお世話になって………」
この世界には空の国の言い伝えがあります。
「片方だけですが……隊長の名前の刻まれた手袋が見つかりました……砂浜に打ち上げられていたものを小さな子供が…………」
私たちのいる地上の国。雲の上に広がる空の国。
「えぇ……すみません。あの日……僕が…………本当に、今でも……」
そこには私たちと同じように子供も大人も暮らしていて。
「……はい、必ず届けに伺います………いえ、そんな………ありがとうございます…………ほんとうに……」
私たちから空の国は見えないけれど、空の国の人はいつも私たちのことを見ている。
そんな空の国の言い伝えが。
道のずっと向こうに教会が見えてきました。
イルの小さな体はちょっとだけ疲れてしまっていますが、それでも立ち止まらずに前を向いて歩いて行きます。
右を向くと橙色に光を放ち始めた太陽が海へと近づいていくのが見えます。白の鳥が空の色へと溶けるように飛び込んでいきます。東の空は少しずつ影を強くしてまだ痛みの残るこの世界の傷跡を隠そうとします。
イルは走り出しました。
疲れを忘れて、怖さを忘れて、昨日を忘れて、ただ、両手を広げこちらへと駆けてくるサニアの、その優しい影に飛び込むように目一杯に。