第56話:「カール11世:3」
第56話:「カール11世:3」
皇帝が、その臣下でしかない者に対し、自ら頭を下げる。
その、あり得ないはずの異様な光景を目にしたエドゥアルドは、不思議なことに、これまでに感じていた緊張感や、おそれを、一度に忘れ去ってしまっていた。
信じられないような状況に遭遇して、呆気に取られてしまったというだけではない。
カール11世に対する、怒り、そして軽蔑の気持ちが、エドゥアルドの中に生まれたからだ。
(……今さら、なにを)
エドゥアルドは、自身に向かって深く頭を下げ続けているカール11世の姿を、冷ややかに双眸を細めながら見つめていた。
本当に、今さらなことなのだ。
カール11世がいくら頭を下げたところで、エドゥアルドの父親は帰ってこないし、父親と一緒に失われたノルトハーフェン公国の人々も、戻っては来ない。
しかも、カール11世のこの様子を見るに、エドゥアルドから父親を奪い、ノルトハーフェン公国に多くの犠牲を強いた戦争は、本当にカール11世の自己満足によってはじめられたものであったとしか、考えられない。
エドゥアルドは、父親を失ったことで自身の立場が危うくなり、それからの数年間、幽閉同然の暮らしをし、日々、暗殺を警戒する生活を続けなければならなかった。
それに加えて、エドゥアルドのために働いてくれているメイドの1人、シャルロッテ・フォン・クライスも、エドゥアルドと同じようにカール11世が起こした戦争によって父親を失っている。
すべては、皇帝、カール11世の思いつきのために。
平凡な皇帝として、歴史書にさしたる功績も残せずにいたカール11世が、自身について記される歴史書のページに、少しでも華やかな事績を書かせようとしたために。
エドゥアルドも、エドゥアルドも大切な人々も、多くのものを失った。
だが、今さらなのだ。
死んだ人々が生き返ることなどないし、自身の歴史書の記述を増やすために、それ以外に意味のない戦争を起こしたという事実は、なにも変わらない。
それなのに、カール11世は、エドゥアルドに頭を下げ、許しを請うている。
エドゥアルドには、そんな無意味なことをするカール11世のことが、余計に腹立たしかった。
「皇帝陛下。
陛下のお気持ち、大変、嬉しく、恐悦至極でございます。
しかしながら、どうぞ、臣下のためにそのお心をわずらわすようなことは、なさいませぬよう。
陛下の臣、陛下の民が、陛下の御心のためにその身を投げうつことは、当然のことでございます。
我が父も、その臣民も、皆、その当たり前のことをしただけでございますれば、陛下が思いわずらうようなことなど、なにもございません」
だが、エドゥアルドはすぐにその顔に笑顔を作ると、カール11世にそう述べていた。
「エドゥアルドよ。
汝は、そう、思ってくれるか」
すると、エドゥアルドに向かって頭を下げていたカール11世は、ゆっくりと頭をあげた。
その表情はどこかほっとしたような、穏やかな表情だった。
「陛下の臣下として、当然のことでございます」
そんなカール11世に向かって、エドゥアルドは作り笑いを浮かべたまま、そう言ってうなずいてみせる。
(これが、皇帝なのか……)
だが、その内心では、エドゥアルドは失望していた。
自分の父親の死が、ノルトハーフェン公国の多くの人々の死が、すべて無駄であった。
カール11世の思いつきで、平凡な皇帝が、少しでも歴史書に華やかに描かれたいという愚かな野心を持ったことで、多くの人々がその運命を翻弄された。
その事実を知ってしまったエドゥアルドにとって、カール11世はもはや、軽蔑するべき相手でしかなかった。
なにより腹立たしいのは、エドゥアルドはそんな凡庸な皇帝に仕えている臣下だということだった。
カール11世程度の人物に、エドゥアルドも、タウゼント帝国の諸侯も、その人々も生殺与奪の権利を握られ、その命令には絶対に従わねばならない。
これほどつまらないことも、他にないはずだった。
だが、エドゥアルドはもう、そんな内心を表に出すようなヘマはしなかった。
今はただ、少しでも皇帝のおぼえをめでたくして、今後の自分自身やノルトハーフェン公国の立場をより良いものとする。
そのことだけを考えるべきだったからだ。
「我が皇帝陛下。
そろそろ、お時間でございまする」
その時、エドゥアルドとカール11世の2人がいるテントの外側から、侍従がそう呼びかけてくる。
「軍議の準備、整ってございます。
また、諸侯の方々も、集まっておいでになりました」
その侍従の言葉に対してカール11世がなにかを言うよりも早く、エドゥアルドは皇帝に向かって深々と頭を下げていた。
「陛下。
私は、これで、失礼いたしたく思います。
私は若年であるため、他の諸侯の皆さま方よりも遅く席につくより、先に席について、皆さまをお出迎えしたく思います。
まだ、ほとんどの諸侯の方々には、ご挨拶もできておりませぬので」
「おお、そうであったな。
うむ、そうするがよかろう」
エドゥアルドの言葉に、カール11世はそう言ってうなずいてみせ、エドゥアルドがこの場を離れることを許可する。
「ならば朕は、少し余裕を持って行くとしよう。
汝が、他の公爵とくらいは、言葉を交わせるほどにな」
「ご配慮、かたじけなく。
それでは、お言葉に甘えまして、臣、エドゥアルド、陛下の御前より、失礼させていただきます」
エドゥアルドは頭をさらに深くと下げると、そのまま後ろに後じさって、それから、皇帝の方を振り向くことなく踵を返した。
エドゥアルドにとってはもう、その場にとどまり続ける理由も、カール11世の顔を見る理由も、どちらもなかったからだ。