第530話:「アルトクローネ公爵の決断:2」
第530話:「アルトクローネ公爵の決断:2」
アルトクローネ公爵が、グラオベーアヒューゲルの会戦の勝敗が決するよりも以前に軍を動かし、逃げて来るヴェストヘルゼン公爵を捕らえることを決意させた、そのきっかけとなった手紙。
差出人の名は、分からない。
デニスが未だ意識を取り戻さないカール11世の療養所で、眠り続ける皇帝のベッドの脇で跪きながら、自身の意志の弱さが招いてしまった事態の重大さ、その責任の大きさに押しつぶされそうになっていた時、いつの間にか扉の下から差し込まれたものだった。
手紙の内容は、痛烈だった。
そのほとんどの部分が、この内乱が生起するのに当たってデニスが果たしてしまった役割がいかに大きいかということを、淡々と指摘し、非難する内容だったからだ。
自身の責任を自覚していたアルトクローネ公爵は頭を抱えるしかなかったが、しかし、その手紙の最後には救いもあった。
『公正軍は必ず連合軍を打ち破り、この帝国に秩序を取り戻すでしょう。
しかしながら、万が一、両公爵を、特にベネディクト殿下を取り逃がしてしまった場合、彼はその故国で再起を図り、内乱は容易には終結せず混迷を深める、という事態にも陥りかねません。
より多くの犠牲が生じることとなってしまうのです。
そこで、デニス殿下に、お願いがございます。
もし、連合軍がその全力を持って公正軍と決戦するために南下を開始いたしましたなら、その後方を、ベネディクト殿下がその領国へ帰還するはずの道を、アルトクローネ公国軍のお力を持って抑えていただきたいのです。
もしもデニス殿下がベネディクト殿を逃さずに捕らえて下さいましたら、それはきっと、殿下ご自身が背負われた責任を果たしたことになるのに違いありませぬ。
殿下の誤りによって始まってしまった内乱を、殿下のご決心によって終結させるのです。
どうか、ご決断を』
自分が犯してしまった過ち。
今さら起きてしまったことをなかったことにはできないが、しかし、自身の行動によっていくらかでも責任を果たし、償いとすることができる。
そのことを知った時、デニスは迷わずに決断を下した。
ベネディクトが戦場からの脱出に失敗するのなら、それでよい。
しかし、もし逃げてきたのだとしても、決してヴェストヘルゼン公国にはたどり着かせない。
そう決めたデニスは、連合軍が自ら築いた防御陣地を出払った後、手紙に書かれていた通りに軍を動かし、ベネディクトが逃走に使いそうな経路に部隊を配置して待ちかまえていた。
ヴェストヘルゼン公爵がアルトクローネ公爵のいる場所に逃げ込んできたのは偶然だったが、他の道をたどったとしても逃げ延びることはできなかっただろう。
間道も含めて、あちこちに監視する部隊が配備されている。
こうして、手紙を書いた何者かの思惑通りに内乱の首謀者はその身柄を拘束され、南へ、エドゥアルドの下へと送られることとなった。
「それでは、エドゥアルド殿の下へ参ろうか」
臨時の監獄となった馬車の準備が整うと、デニスは数百の騎兵部隊を率い、自らベネディクトを乗せた馬車の隊列を護衛して南へと出発した。
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グラオベーアヒューゲルの会戦から、1週間。
未だにヴェストヘルゼン公爵の行方をつかめずにいたエドゥアルドは、焦りを隠せずにいた。
すでに、指揮下にある公正軍はベネディクトが脱出に成功してしまったという前提で動き出している。
捜索範囲を広げる一方で、ヴェストヘルゼン公国をどうやって攻略するのか、その作戦が考案され、必要な兵力、物資を確保するために参謀本部がその機能を発揮させている。
作戦の立案に当たっては、戦いによって兵力が以前とは変化しているという点を考慮しなければならず、参謀たちは苦労している様子だった。
グラオベーアヒューゲルの会戦の結果、公正軍には3万名近くの死傷者が出た。
勝利を得たとはいえ、敵軍の抵抗も激しかったということだ。
15万の敵軍は雲散霧消したが、おそらく、━━━生じた死傷者の数ではほとんど差がなかっただろう。
それは、公正軍で負傷者を治療するために会戦から今まで必死に働き続けてきた衛生隊の治療記録からもそうだと判断できる。
敵同士とはいえ、同じタウゼント帝国の臣民であるからという理由で、エドゥアルドは敵兵だった者にも治療を施すことを許可したのだ。
その分、衛生隊の負担は増したが、その結果救われた敵兵の命は2万を数える。
総数としてはほぼ、公正軍の側で救護された負傷兵と並ぶもので、両軍の犠牲がそれだけ拮抗していたということを示している。
勝てたのは、兵士たちの戦意の差であった。
公正軍は絶対に勝利を得るのだと決意していたが、連合軍の将兵の内、大多数はそうではなかった。
だからきっかけを与えてやるだけで軍全体が崩壊を開始し、エドゥアルドは勝利を得ることができたのだ。
ただ、公正軍の総数は、会戦が行われる前よりも若干、増加していた。
というのはベネディクトやフランツを見限って早々に逃亡した諸侯たちが、それぞれの軍を率いて勝利者である少年公爵に続々と臣従を誓って来たからだ。
今まで中立を決め込んでおきながら、慌てて参陣して来た者たちもいる。
公正軍は3万を失ったが、新たに集まって来た諸侯の軍勢はそれを上回る。
今後も、徐々に増えていくのに違いなかった。
しかし、エドゥアルドは憂鬱だった。
それだけ人々が自分のことを支持しているということは、グラオベーアヒューゲルの会戦における勝者がノルトハーフェン公爵であると誰もが認識しているということでもあるのだが、ベネディクトを取り逃がしてしまったために、これで内乱は終わり! とすることはできなかったのだ。
これからも戦いは続き、より大きな犠牲が出ることとなる。
そのことを考えると、頭が痛くなる。
ノルトハーフェン公爵は未だに、勝利したことの喜びを味わうことができないままだった。




