第528話:「落ちのびた先で見たもの:2」
第528話:「落ちのびた先で見たもの:2」
逃避行を続けるヴェストヘルゼン公爵の前方を遮るように布陣していた一軍。
アルトクローネ公国の軍隊。
ベネディクトとその護衛兵たちが呆気に取られてその姿を眺めていると、兵士たちの隊列に動きがあった。
兵たちが左右に割れ、そこに、馬に乗った人影があらわれる。
アルトクローネ公爵、デニス・フォン・アルトクローネの姿だった。
中肉中背の男性。
短めの黒髪をうしろになでつけるようにして整え、口髭を持つ、気弱そうな人物。
それは間違いなく、よく見知っている相手だった。
しかし、どこかそれまでの印象とは違っていて、まるで別人のようにも思える。
いつも自信なさそうに、申し訳なさそうにしていた表情。
それが今は、毅然とした、揺らぐことのない決心を持った者の顔になっているのだ。
(いったい、なぜ、ここにデニス殿が……? )
ベネディクトは瞬時に思考を巡らせ、これがどんな状況なのかを理解し、自分がどのように振る舞うべきかを考える。
思い当たる可能性は、2つ。
1つは、これまでどんなに参戦を呼びかけても中立の立場を保ってきたデニスが翻意し、ようやく兵を出してくれたという望ましいもの。
もう1つは、グラオベーアヒューゲルの会戦での敗北を聞きつけ、エドゥアルドに恩を売って内乱終結後の自身の立場の安泰を図るために、逃走したヴェストヘルゼン公爵を捕らえるために退路を塞いでいるという、悪夢だ。
ベネディクトは、前者の可能性を信じた。
なぜなら、もし後者であったなら、デニスがこの場にいられるはずがないからだ。
自分たちはなりふり構わず、急いでここまで逃げて来た。
さすがに連絡システムとして制度化され、馬を乗り継いで迅速に情報伝達をできるように準備されている早馬に比べれば遅いかもしれないが、そう劣りもしない速度で移動して来たはずだった。
だとすれば、アルトクローネ公爵がグラオベーアヒューゲルの会戦の結末を知り、慌てて出陣して来ても、ここでベネディクトの行く手を遮ることができるはずはなかった。
アルトクローネ公国はここからさほど離れてはいなかったが、知らせを受け、軍隊の準備を整え、出陣して来るには数日はかかる。
会戦の勝敗を知ってから行動しているのだとすれば、あまりにも早すぎるのだ。
もちろん、希望的な観測、というのも含まれた判断だった。
ベネディクト一行は過酷な逃避行により疲弊し、空腹で、衣服も汚れきって不愉快だった。
風呂に入ってサッパリしたい、というのはさすがに贅沢な望みだと理解はしていたが、せめて満腹するまで食事をし、清潔なベッドの上でゆっくりと眠りたかったのだ。
そしてその願いは、叶いそうだった。
馬に乗ってあらわれたデニスだったが、兵士たちの隊列より前に出ると馬を下り、それと同時に、戦列を組んでいた歩兵たちが一斉に[捧げ筒]の姿勢を作って、ヴェストヘルゼン公爵に対して敬意を示す姿勢を見せたからだ。
「お……、おおおっ! デニス殿! デニス殿……っ! 」
思わず、ベネディクトの双眸から涙がこぼれる。
運命はまだ自分を完全に見放してはいないのだと、嬉しさで心が震える。
よろよろとした足取りで進んでいくヴェストヘルゼン公爵のことを、デニスは慌てて前に走り出て、丁寧に迎え入れてくれた。
「ベネディクト殿、遅参、申し訳もございません。
しかしながらこのデニス、参陣すると決めた以上は今までの分も武功を持って取り返させていただきましょう。
それにしても、いったい、どうしてこのようなお姿で? 」
「あ、ああ……、デニス殿。
これはな、小僧に……、してやられてしまったのだ」
一瞬言葉に詰まってしまったが、敗北の事実を隠し通すことは困難だと判断し、率直に、短い言葉でエドゥアルドとの決戦に敗れてしまったことを告げる。
なにしろ自分たちは今、逃避行の末に疲弊しきった姿であり、しかも身分を隠すために公爵の服も捨ててしまっている。
戦いの勝者がそのような姿をしているわけがなく、デニスはすぐに何があったのかに気づくはずだった。
「しかし、まだ逆転できぬわけではない!
戦いの結果、小僧の軍にも少なからず損害を与えたはずであるからな!
そして、我がヴェストヘルゼン公国は未だ無傷であり、ワシに忠義を誓う臣下はまだまだ、数多く残っておるのだ。
ここにデニス殿の軍も加われれば、まさに百人力!
逆転も夢ではなかろうて! 」
劣勢を悟られ、裏切られてはたまらない。
そう思ったベネディクトは、自身の敗北をとりつくろう言葉を矢継ぎ早に並べ立てた。
「なるほど、ベネディクト殿は、あくまで捲土重来を図るおつもりなのですかな? 」
「ああ、当然だ!
あのような若輩者に、帝国の命運を任せることなどできはせぬからな! 」
淡々と確認するデニスの言葉に、ベネディクトは爛々と闘志を瞳に宿しながら断言する。
「このような事態に至っても、まだ、戦おうとなさるのか……」
その姿を間近で見せつけられたアルトクローネ公爵は、視線を逸らし、沈痛な面持ちで、自身の口の中だけでそう呟く。
その言葉は、疲れ切っていたヴェストヘルゼン公爵の耳には届かない。
「? デニス殿、今、なにか? 」
「い、いえ、なにも。
それよりベネディクト殿、ここまで落ちのびて来られるのは、さぞや大変でございましたでしょう?
ひとまずは、私の天幕にて、ごゆっくりとお休みください。
すぐに食事と、簡単ですが湯あみの準備をいたしましょう。それに、お着替えも。
もちろん、護衛の方々にもご用意いたします」
「お、おおお! それはありがたい!
なによりのもてなし、感謝いたしますぞ! 」
藁にもすがる思いで、というのはまさにこういうことを言うのに違いない。
ベネディクトもその護衛の兵士たちも、笑顔のデニスが示してくれた厚意を喜んで受け入れた。




