第526話:「逃避行」
第526話:「逃避行」
深夜、日付が回ったころ。
ついに、ベネディクト公爵の所在が明らかになった。
それを知っていたのは、グランツ・フォン・リヒター準男爵。
ヴェストヘルゼン公爵の忠臣であり、勇名を誇った指揮官だった。
「我が主君は、とうにこの戦場を去っておるわ! 」
敗走する味方の将兵を叱咤しつつ最後まで戦い抜いたリヒターは負傷し、公正軍によって捕らえられていた。
そして治療を受けた彼は監視下に置かれ、今までどんな尋問にも無言であったのだが、突然、勝ち誇ったように笑い出すと、彼の主がエドゥアルドたちの思っていたのよりもずっと以前に、すでにこの戦場にいなかったのだということを明かした。
「フランツ公爵の指揮する戦線の西側が総崩れとなった時。
ベネディクト殿下に進言し、殿下には、落ちのびていただいたのだ。
貴様らは勝ったと思っておるのだろうが、そうはさせぬ!
我が故国の峻険なる山々、そして殿下に忠義を誓う精兵が、必ずや最後の勝者となるであろう!
フハハハハハッ!!! 」
要するに、思った以上にベネディクトの逃げ足は速かった、ということらしい。
彼は戦線の西側、次いで中央が崩れたのに気づくと、早々にこの決戦での勝利に見切りをつけ、故国で再起を図るために逃亡したのだ。
その事実は準男爵が明かすまで、誰にも知らされてはいなかった。
連合軍の将兵も、そして公正軍の将兵もすでにヴェストヘルゼン公爵が戦場にいないことを知らないまま戦い続けていたのだ。
彼の脱出から時間が経ち、十分に遠くまで逃げおおせたのに違いない。
公爵が逃げたという事実を知る数少ない者であるリヒターは、捕虜とされもはや自分の運命に何の希望もないという状況で、せめて殺される前にエドゥアルドたちを嘲笑してやろうとこの事実を明らかにしたのだろう。
リヒターはひとしきり哄笑し終えると、与えられていたベッドの上で大の字に寝転び、「俺は主君に対し忠義を果たした。もはやなんの未練もない! さぁ、さっさと殺すがいい! あの世から貴様らが敗北する様をとくと見させてもらうわ! 」などと喚いたが、その報告を受けたエドゥアルドは、その要求を黙殺した。
正直なところ、あまり関わっている暇がなかったからだ。
すでにヴェストヘルゼン公爵が逃走したらしいということはわかっていたが、そのことを保証する証言が出てきたことで捜索態勢に手を加える必要があった。
今までは戦場の周囲でまだ隠れ潜んでいるという可能性も否定できなかったから、近場にも多くの人員を配置し、文字通り草の根を分けて探させていたのだ。
敵将は、その故郷で再起を図ろうとしている。
ということは戦場の近くになどもはやおらず、できるだけの速度で自身の本拠地に向かっているということが予想される。
すでに騎兵隊を割いて追跡は実施していたが、ベネディクトが祖国に向かって逃げている可能性が高いということ、さらに捜索範囲を遠くに広げなければならなくなったことを知らせる伝令を出してその旨を知らせ、戦場の近隣を捜索していた者たちを大幅に削減して、ヴェストヘルゼン公国へ向かう道々へ新たに派遣し直した。
だが、発見の報告が得られる可能性は小さいと言わざるを得なかった。
逃走を開始してからすでに多くの時間が経過してしまっているし、相手が全力で逃げているのだとしたら、こちらが同じく全力で追いかけてもその間の距離はほとんど縮まらないはずだったからだ。
追跡のために必要な措置を命じたエドゥアルドだったが、彼はそれとは別に新たな命令を下した。
それは、ヴェストヘルゼン公国を攻略する準備を開始し、作戦を立案すること。
そしてこちらにとってより有利な条件で講和することができるよう、政治的な根回しを開始すること。
会戦に勝利した少年公爵だったが、結局、その日は徹夜することとなり、勝利に酔いしれてなどいられなかった。
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ヴェストヘルゼン公爵・ベネディクトは、逃げた。
逃げると決めたら躊躇せず、なりふりかまわず、ひたすらに逃げた。
身に着けていた衣服を捨て、宝石を捨て、プライドを捨てて、馬と、わずかな護衛と共に逃走した。
日が暮れてもかまわず、脚を止めることなく進み続けた。
馬が疲労困憊すれば農家から盗み、ついでに食料も強奪し、馬上で食らいながら逃げ続けた。
公爵の心の中は、敗北感と屈辱、そして憎しみで満たされていた。
自分は確かに、グラオベーアヒューゲルの会戦でエドゥアルドに、あの小癪な小僧に敗北したのだ。
それは、戦場に背を向け、多くの部下を残し忠臣リヒターに殿を任せ、わずかな供回りだけを連れて逃げているという状況から見れば動かしがたい事実だ。
勝てると思っていた。
敵を上回る大兵力をかき集め、しかも、相手は自ら補給線を危険にさらすという愚策をとり、袋の鼠となったはずだった。
ズィンゲンガルテン公国の抵抗を受け立ち往生している公正軍を、背後から襲う。
そうなれば自ずと勝利が転がり込んで来る。
しかしその思惑は外れた。
敵を引きつけるべきヴェーゼンシュタットは1日も抵抗せずに開城し、連合軍は正面から敵軍と戦わなければならなくなった。
こんなはずではなかったのだ。
そして、連合軍の右翼、次いで中央部の敗走。
ベネディクトを盟主として忠誠を誓っていたはずの諸侯の軍は旗色が悪いと見るとすぐに退却を開始し、フランツは最後の意地を見せはしたが敗れ去った。
その戦いぶりの不甲斐なさ。
最初、逃げ続けるベネディクトの憎しみは、味方へと向けられていた。
だが、段々とその対象は、この敗北を自身に与え、惨めな逃避行を強いた少年公爵へと向けられていく。
アイツさえ。
あの小僧さえいなければ、自分は今頃、帝都・トローンシュタットで帝冠をその頭上に戴いていたはずなのだ。
(小僧め、思う通りにはさせんぞ!
必ず、誰を敵にしたのかを思い知らせ、後悔させてやる! )
今の望みは、ただ一つとなっていた。
できるだけあの少年公爵の足を引っ張り、思い通りのことをさせないこと。
その行為自体がこの上なく惨めなものでしかないということに、ベネディクトはまだ気づいてはいなかった。




