第524話:「包囲:3」
第524話:「包囲:3」
包囲網を形成した公正軍の圧力に屈し、連合軍の一部が逃亡を始めたことを受け、エドゥアルド・フォン・ノルトハーフェンは最後の総攻撃の開始を告げた。
16時15分。
交戦が開始されてから10時間半以上が経過した時のことだった。
フランツ公爵の近衛兵たちと戦った時と同様、ベネディクト公爵の軍はその全軍が総崩れに至ったわけではなかった。
逃げ出したのは、諸侯の軍勢と、ヴェストヘルゼン公国軍のほんの一部のみ。
後の大多数は、逃げずに戦場に踏みとどまった。
5万近くはい残っているだろうか。
敵兵は自らの中隊旗の下で微動もせず戦列を保ち、公正軍の将兵がこの戦いに決着をつけようと前進してくるのを待ち受けている。
それは、ベネディクトにフランツよりも多くの人望があったから、というわけではなかった。
その旗下にある兵士たちの多くがきちんと訓練を積んでおり、戦場でどう振る舞うべきかという心得を身に着けていたからだ。
彼らの姿は、否も応もなく、これから起こる戦いの熾烈さを生々しく想像させる。
しかし、公正軍の将兵も決して前進を止めることはなかった。
あと少しで、この会戦での勝利を確定させることができる。
栄光を手にする瞬間を前にした、高揚した感情。
そして、若き少年公爵に皇帝を勝ち取らせ、この、旧いヘルデン大陸の大国に、新しい時代をもたらす。
次の一千年を迎えるための礎を作り上げるという歴史的な大事業に貢献する。
そういう使命感、自負心が、公正軍の将兵の心を支えていた。
やがて、最前線で射撃戦が開始される。
双方の戦列が一斉射撃を実施し、そして、喚声を上げ、兵士たちは銃剣の切っ先をそろえて突撃していく。
この最終局面において、公正軍は長々と射撃戦を展開しなかった。
これまでの戦闘で弾薬を消費し、残弾が少なくなってきている部隊があったというもあるが、なにより、この一撃で決着をつけたいという強い感情が働いていた。
兵士たちの多くは、戦闘によって疲労を蓄積させている。
昼食を摂ることができた者もいたが、できなかった者も当然いる。
運よく負傷しなかった者も衣服は戦塵にまみれて汚れきっていたし、7月の、夏場の気温の高い状態で動き続けてきたから汗まみれで、不愉快だ。
脚はもう棒のようで、全身くたくた。
ただ、絶対に勝つのだという気力で戦い続けているという者も少なくないような状態だった。
だから、一刻も早く勝利を得て、戦いを終焉させたい。
その意識は自然に多くの将兵の間に共有されていた。
疲弊した状態で無理に戦っても、普通は勝つことなどできない。
本来の能力を十分に発揮できなければ、敵を倒すことなどできない。
だが、戦いは公正軍の側に有利に進んでいた。
敵の一部が逃亡したことで兵力の比率がほぼ2対1という有利な状況を得ることができたというのもあるが、こちらと同様、連合軍の兵士たちも疲労が溜まっていたからだ。
北側から、西側から、南側から。
最後の気力を振り絞って行われた公正軍の猛攻撃を受け、連合軍は東側に押し出されるように後退していった。
容易には崩れない。
ヴェストヘルゼン公国軍は以前からタウゼント帝国では精強な軍隊として知られており、その将兵は山岳地帯で生まれ育ったために頑健で、体力も忍耐力もある。
度々、公正軍の攻撃は撃退され、突撃をしかけた歩兵中隊が逆に蹴散らされて追い返されるという事態も発生した。
一進一退の攻防。
その状況が一変したのは、16時50分ごろのことであった。
元々戦場は黒色火薬の使用によって生じた濃密な硝煙によって視界が悪化していたのだが、それが、突然さらなる悪化を見せた。
それは、火災のせいであった。
両軍が戦っている辺り一帯は田園地帯で、夏に収穫時期を迎える秋まきの麦が黄金の平原を作っていた。
その麦畑が、炎上しているのだ。
戦場の砲火によって発火したという可能性もあったが、しかし、タイミングがあまりにも公正軍にとって都合よすぎた。
火災は連合軍の南側から発生し、正午ごろから吹き出した南風に煽られ、北へ、ベネディクト公爵の軍旗がかかげられている方向へと燃え広がって行ったからだ。
(もしや、ヴィルヘルムが……? )
燃え広がる炎の地を舐める巨大な生き物のような鮮やかな橙色を目にし、辺りに漂う焦げ臭いにおいをかいだエドゥアルドは、そんなことを思っていた。
麦畑が燃え出した方向には、ユリウスが指揮する部隊がいる。
そしてそこには、少年公爵のブレーン、ヴィルヘルムもいるのだ。
あのなかなか本心を見せない知恵者がなにか、策略を巡らしたのかもしれない。
それは、彼ならばこうして自分を助けてくれるのに違いないという、一種の期待する感情だった。
意図的に火が放たれたのか、そうではないのかは判然としなかった。
しかし、目の前にあらわれた事象として、実際に麦畑は燃えている。
━━━そして、その炎と煙に追い立てられて、連合軍の布陣が崩れた。
いくら勇敢に戦うことができる兵士たちであっても、敵によってではなく、集団ごと炎に焼かれ、煙にまかれて死ぬことは耐え難い恐怖だったのだ。
あらためてエドゥアルドが命じるまでもなかった。
敵に起こった動揺を見て取った公正軍の指揮官たちは、次々とその旗下の将兵に突撃を命じる。
その攻撃によって、ついにベネディクトの本軍も打ち破られた。
敗北を悟った敵兵は武器を捨てて退却を開始し、そして、微動もせずにそこにあり続けたヴェストヘルゼン公爵の軍旗が、倒れたのだ。




