第523話:「包囲:2」
第523話:「包囲:2」
グラオベーアヒューゲルの戦場で、西側、そして中央に配置されていた連合軍を敗走させ、フランツ公爵の抵抗も打ち破った公正軍は、東側に取り残されたベネディクト公爵の本軍を包囲することに成功した。
ノルトハーフェン公国軍の第3師団を中核とする中央の部隊は敵軍の側面へ。
エドゥアルドに直接指揮されている第1師団、それに第2師団を加え、強力な騎兵戦力を有する西側の部隊は、敵軍の後方に突進し、ベネディクト公爵の退路を遮断した。
しかし、まだ勝利が完全に達成されたわけではなかった。
公正軍は未だに10万以上の戦力を保っていたが、敵にもまだ7万近くの兵力が残されている。
1つ選択を誤れば、逆転を許してしまう恐れさえあった。
この会戦における全軍の指揮を執るエドゥアルドを支えてきたノルトハーフェン公国軍の参謀総長、アントン・フォン・シュタムは、焦らなかった。
確実に敵軍の退路を遮断するのと同時に、速攻を仕掛けず、敵を包囲する隊列をしっかりと整えさせたのだ。
それは、戦闘力を最大限に発揮させる準備であるのと同時に、敵兵を威圧し、あわよくば自発的に戦場から脱出させようという意図を持った示威行動でもあった。
この目的を果たすために、アントンは敵軍に対する包囲網に、意図的に抜け道を残していた。
それは、戦場の東側に向かって落ちのびるという道だ。
もちろん敵がこの誘いに乗って逃げ出したら、老練な参謀総長の思う壺であった。
脱走兵が生じたことで混乱する敵を一斉に攻撃し、その動揺につけ込んで一気に撃破し、徹底的に追撃を行って、二度と再起できないようにその勢力を粉砕する。
そして確実にベネディクト公爵を討ち取るか、捕らえるのだ。
囲師必闕ということわざがある。
包囲され、逃げ場のなくなった敵は必死になって戦い、往々にしてこちらの被害も軽視できないものとなるから、必ず逃げ道を残しておくべきだという知恵だ。
敵対しているとはいえ、相手は同じタウゼント帝国の人間。
無用な殺傷は避けたいという気持ちもある。
だからといって黙って敵が逃げるのを見過ごすつもりはなかった。
もしまとまった数に逃げられて敵軍に再起を図る余地を残してしまったら、内乱をできるだけ短期間に終結させるという戦略目標を果たすことができなくなる。
特にベネディクト公爵だけは、絶対に逃すことは許されない。
このためにアントンは、フランツ公爵の親衛隊を撃破するのに功績のあった騎兵部隊を、敵軍の退路となる東側に先行して派遣していた。
退却しようとする敵を襲撃し、再び1つの勢力を形成できなくなるようにバラバラに引き裂き、そして、敵の最高司令官を必ず捕捉するためだ。
敵を確実に粉砕するために、できれば野戦砲の火力を用いたいという考えもある。
だが、会戦の開始から激しく射撃を続けてきた公正軍の火砲は、すでにその最大の火力を発揮できなくなりつつあった。
砲そのものは、そのほとんどが健在なまま残っている。
旧式砲はともかくとして、改良された新型の野戦砲はなんとか前線に移動させ、砲撃態勢を取らせることもできる。
ではなぜも火力を発揮できないのかというと、それは、━━━弾薬が尽きかけているためであった。
グラオベーアヒューゲルの会戦において、公正軍はその当初から砲兵の威力を活用して来た。
多くの砲を集中して運用し、その絶大な火力で戦況を支配した。
しかしそれは、大量の弾薬の消費と引きかえの火力だった。
前装式の滑腔砲だから、撃とうと思えばその辺に転がっている石でも何でも撃ち出すことはできる。
昔は、石を丸く削ったものを砲弾として発射していたのだ。
だが、火薬はどうにもならなかった。
正確に言えば、まだ、後方に残して来た補給の団列にはいくらか火薬はのこっている。
しかし、輸送を担当する者たちは正規の軍人ではなく、金銭契約によって雇用した労働者たちであった。
訓練を受けたこともない民間人である彼らは、戦場を恐れ、前線まで爆発する危険のある火薬を運んでこようとはしない。
このために、砲兵隊は補給を受けられず、最初から保有していた弾薬だけで戦わざるを得なかったのだ。
砲兵自身が火薬を取りに行く、ということも行われていたが、往復になるのでどうしても時間がかかり、満足に補給は受けられない。
アントンはまだ知らないことだったが、ルーシェが働いている衛生部隊でも経験したのと同じ問題が生じてしまっていたのだ。
(補給隊の問題……、解消しなければならないな)
こちらが包囲を完成させる間に防御態勢を固めようとしている敵軍の姿を馬上から見つめながら、アントンは内心で、補給隊を民間の労働者を雇って任せたままであったことを後悔していた。
兵站を万全にするために。
そのためにこそ参謀本部という組織があるようなものであったが、必要な補給を実施できるように計算し、どう実行するかを計画して準備することは十分に考えていたが、それを実際に[誰が]行うのかということは、すっかり盲点になってしまっていた。
砲兵をもう十分に活用できないというのは確かに痛手ではある。
しかし、幸いなことに致命的な問題とはならなさそうだった。
━━━こちらの意図したとおり、包囲の圧力を加えられた敵軍の一部が崩れ、敗走を始めたからだ。
それは、敵の全体には波及しなかった。
元々はベネディクトが立ち上げた皇帝軍に参加していた諸侯たちと、ヴェストヘルゼン公国軍のほんの一部が逃げ出しただけだ。
公爵の所在を示す軍旗は、微動もしない。
敵の大将は、逃げても公正軍に待ち伏せされているだけだと、理解しているのかもしれなかった。
「殿下。機が到来したようでございます」
歴戦の老将は物静かに、今の主君である若き公爵に命令を下すように促す。
この会戦における実際の指揮のほとんどは、アントンと、その旗下にある参謀将校たちによって行われていた。
エドゥアルドは参謀総長の人格と能力を信頼し、全面的に指揮権を委ねる形を取ったのだ。
だが、あくまでこの軍の総司令官は、少年公爵であった。
「ああ、承知している」
老将の右斜め前、愛馬である青鹿毛の馬上にあったノルトハーフェン公爵は一度振り返ると、小さく、だが、しっかいとうなずいてみせる。
そして正面を、敵軍のある方向に向き直った彼は、命令を下した。
「攻撃せよ!
内乱を引き起こした首魁であるベネディクト公爵を、絶対に逃がすな! 」




