第520話:「フランツの運命:2」
第520話:「フランツの運命:2」
ズィンゲンガルテン公爵は、戦場で最後まで戦って戦死した。
歴史にそう記させるために、フランツは自らの懐から毒薬の入った小瓶を取り出した。
一口飲み干せば、1分以内に絶命するという毒物。
これまでにも多くの命を終焉させてきた、実績のある猛毒だ。
その製法は、ズィンゲンガルテン公爵家に代々、密かに伝えられてきている。
過去には今回と同じように公爵家の当主が名誉ある死に方を選ぶために用いられたこともあったし、人知れずに政敵を抹殺するために使われたこともあった。
使用すれば体内に吸収された成分が瞬時に人間の神経活動を停止させ、心臓を止め、脳の活動を終わらせる。
痛みも苦しみもほとんどない。
フランツはこの秘薬をこれまで実際に使ったことはなかった。
幸いにも今までは自決を考えなければならない事態には追い込まれなかったし、暗殺という手法を用いて始末したい政敵もいなかったからだ。
(ベネディクト公爵に、使ってしまえばよかったのかもしれぬな)
不意に、そんなことを思う。
この内乱が始まる以前に、皇帝選挙で自身の最大のライバルとなるヴェストヘルゼン公爵を亡き者にしておけば、こんなことにはならなかったはずなのだ。
皇帝選挙ではフランツが圧倒的な得票数で勝利を納め、今頃は、帝都・トローンシュタットで戴冠式を済ませていたのに違いない。
それは、あり得たかもしれない未来の1つだった。
しかしこの世界では、歴史はその道筋をたどってはいない。
━━━そんなことをせずとも勝てると、そう思っていた。
ズィンゲンガルテン公爵家には長年継続して来た婚姻政策によって多くの血縁があり、それらの力を結集すれば、政治工作で勝利を得ることは容易であるはずだった。
それに暗殺という手段はあまりにも陰険であり、個人的にも用いたくはない手法だった。
皇帝になるとしても、堂々とその地位を得たかったのだ。
そんな思いのために、結局はこの毒薬を自分自身に使うはめになってしまった。
悔恨から自嘲する笑みを浮かべたフランツは馬を下りると、同じく馬を下りて近づいてきた親衛隊の隊長に、事前に用意してあった遺書を手渡す。
「ハインリヒの臆病者にくれてやるのは惜しいが、しかし、私が亡き後はきっと、小僧は我が愚息に公爵位を引き継がせるだろう。
引き継ぐ以上は、我がズィンゲンガルテン公爵家をなんとか生きながらえさせてもらわねばならない。
だから貴殿に、この遺言を託す。
なんとしてでも落ちのび、ハインリヒにこの手紙と、我が恨みの言葉を与えてやってくれ」
「こ、公爵様……」
親衛隊の隊長、ギュンター・フォン・ヴァッサーミューレは、主のその言葉に感極まって声を震わせ、涙をこぼした。
彼は初老の男性だった。
従軍経験豊富な準伯爵の爵位を持つズィンゲンガルテン公国の臣下で、白髪をオールバックに整え、切りそろえられた口ひげを生やし、顔に多くのしわが刻まれている。
本来であれば、彼はもう、軍務を引退しているはずであった。
過酷な行軍に追従するためには体力が不足しており、その意志や判断力が健在であっても満足に職務を遂行できなくなっている。
実際、彼は数年前に当主の座を息子に譲って、自領でゆっくりと暮らしていた。
それでも彼がここにいるのは、他に適任者がいなかったからだ。
アルエット共和国軍との決戦となったラパン・トルチェの会戦で現役の親衛隊の隊長は戦死してしまっていたし、爵位を譲ってあった息子も、その戦いから帰ってこなかった。
フランツとギュンターは旧知の間柄であった。
彼は若かりし頃のズィンゲンガルテン公爵が帝都に留学に出ていた際に護衛隊長としてつき従い忠実にその役目をまっとうし、以来、単純な君臣の間柄としてだけではない深い信頼関係で結ばれていた。
このために彼は主君に請われて現在の地位に復帰し、最後の瞬間までその信用を裏切ることなく戦い抜いた。
「そのようなことをおっしゃらないで下さいませ!
どうか、私も閣下のお供をさせてくださいっ! 」
「貴殿なら、そう言うと思っていた。
だが、だからこそ、生きてもらわなければならないのだ」
本心から最後までつき従うと言って来るギュンターに、フランツはニヒルな笑みを見せる。
「私を裏切ったハインリヒやモーントたちに、最後まで忠実だったヴァッサーミューレ準伯爵という生きた本物の忠臣を見せつけてやることで、あ奴らに恥をかかせてやるのだ。
これは、貴殿にしかできぬことであろう? 」
ギュンターが生き続けている限り、ハインリヒもモーント準伯爵も、自分たちが裏切りを実行したという負い目を感じ続けるのに違いない。
末永く恥をかかせ続けることで、せめてもの復讐とする。
フランツにはそういう考えがあったが、それだけではなかった。
自分に誠実に仕え、その息子まで失った老いた準伯爵に、少しでも幸多い老後を送ってもらい、彼には安穏としてベッドの上で最期を迎えて欲しいという思いがあった。
「は、はい、閣下……!
このギュンター、必ず!
閣下に与えられた使命、まっとういたしまする! 」
旧知の間柄であるだけに、ギュンターには主君から自身へと向けられた親愛の感情がしっかりと伝わっていた。
彼はフランツの遺書を両手で自身の胸に抱くようにしながら、深々と一礼する。
「うむ。頼んだぞ、ギュンター」
その姿を見つめるズィンゲンガルテン公爵の表情は、晴れやかだ。
不本意な死に方であることは変わりなかったが、しかし、ある程度の[納得]はできる体裁を整えることはできた。
━━━いよいよ、その時だ。
今を置いて、他にふさわしいタイミングはない。
そう信じたフランツは毒薬の入った小瓶のフタをあけ、自身の口元に運ぼうとした。




