第516話:「胸甲騎兵;1」
第516話:「胸甲騎兵;1」
フェヒター準男爵。
かつてノルトハーフェン公爵の地位を巡りエドゥアルドと敵対し、敗れ去った人物だ。
しかし彼は後に少年公爵によって許された。
フェヒターはかつて後継者争いを避けるために諸流として公爵家から分離された血筋の出身で、ノルトハーフェン公爵家の血を引いていたからだ。
公爵としての実権を取り戻した後に、エドゥアルドは様々な改革を実行し、成果をあげて来た。
自身を[不当に地位を奪われた者]として、被害者として見ていた準男爵だったが、今ではすっかり少年公爵の実力を認め、忠誠を誓っている。
彼の意識が変わったことを知ったからこそ、エドゥアルドは過去の罪を許し、ノルトハーフェン公爵家に連なる者として迎え入れたのだ。
命を救われたという恩がある。
そのためにフェヒターは今回の戦いで目立った成果をあげようと、闘志を燃やしていた。
「側背より敵陣を突き崩す!
重騎兵隊、その威力を見せよ!
我に続けッ!! 」
13時57分。
戦場のもっとも西側に千の重騎兵隊を布陣させたフェヒターはサーベルを振り上げてそう叫ぶと、自ら先頭に立って突撃を開始した。
馬を前進させる方法、いわゆる歩法は大まかに言って、常歩、速歩、駈歩、襲歩の4つに分類されている。
常歩は人間でいえば歩いているような状態で、時速で言えば6.6キロメートル、分速は110メートルほど。
速歩は常歩の倍の速度があり、時速13.2キロメートル、分速にすれば220メートルの速度で進む。
駈歩は軽くジョギングするくらいの感覚で、その時速は20.4キロメートル、分速は340メートルになる。
そして襲歩は馬を疾走させている状態で、時速は60キロメートル以上、分速だと1000メートル以上もの速度に達する。
公正軍の重騎兵隊一千は、最初、駈歩で突撃を開始した。
[重]とはついているが胸甲以外の甲冑を捨てた胸甲騎兵はかつての騎士よりもずっと軽量ではあったが、それでも最初から全力で走っていてはすぐに馬がバテてしまう。
突撃の最終段階。
敵の戦列に飛び込むその瞬間に最大の衝撃力を発揮させるためには馬を疲れさせるわけにはいかなかった。
千の騎兵集団は駈歩のまま敵の右側面にまで進出する。
そしてそこで一斉に進む方向を変えると、彼らは横に広がり、突撃態勢を取った。
「突撃ッ!!! 」
フェヒターがサーベルを振り下ろし、その切っ先を敵に突きつけて叫ぶ。
すると彼の隣を走っていたラッパ手が合図の音色を高らかに吹き鳴らした。
馬の進む速度があがる。
ラッパの音色が響き渡るのと同時に胸甲騎兵たちは愛馬の歩法を駈歩から襲歩へと引き上げ、サーベルを高く振り上げ、喚声をあげて突撃を開始した。
蹄が重々しい轟を発しながら地面を掘り起こすように蹴り上げ、軍馬の巨体が胸甲騎兵を乗せたまま、力強く進む。
騎兵たちの被ったピッケルハウベ(頭頂部にスパイク状の頭立てのついたヘルメット)に取りつけられた房飾りが風になびいて広がり、高くかかげられた無数のサーベルの刀身が陽光を浴びて剣呑に煌めく。
彼らがまっすぐに向かっていく敵陣の側面に配置された歩兵たちは、こちらの方を向いていなかった。
というのは、重騎兵隊の突撃に合わせ、公正軍の歩兵部隊による攻撃が実施されていたからだ。
馬と人間を合わせた巨大な質量に速度を乗せ、その運動エネルギーによって敵の隊列を突き崩す。
うまく決まれば一気に戦局を決定づけるほどの破壊力を発揮する騎兵突撃だったが、しかし、敵の戦列が正面を向けて迎えうった場合、突撃の成功率は大きく低下する。
マスケット銃兵の密集横隊が一斉に発射する弾丸は、人間よりずっと大きな体を持つ馬でさえ容易に絶命させる。
そしてこちらに突きつけられるように並べられた銃剣の切っ先で形成された槍衾は、突撃しようとする人間や馬に本能的な恐怖を呼び覚まし、無意識の内に突撃の速度を鈍らせてしまう。
鉛の弾雨、そして銃剣の群れが、突撃を無力化してしまうのだ。
だから騎兵の突撃を成功させるためには、その機動力を生かして敵が予想していない方向に迅速に進出して奇襲するか、突撃をしかける方向とは別の方面から陽動の攻撃を仕掛け、その意識を騎兵たちに向けさせないようにする、できることならその両方を同時に実施する必要がある。
公正軍の歩兵部隊による攻撃は、フェヒターたちの騎兵突撃を成功させるための囮だった。
そしてその効果によって、胸甲騎兵たちはその衝撃力を最大限に発揮することができる。
喚声と、馬蹄の轟き。
それに気がついたフランツの近衛兵たちは慌てて迎撃する体勢を整えようとするが、すでに十分に加速して疾走していた騎兵たちはあっという間に彼らの隊列にまで到達し、そして、次々と近衛兵たちを跳ね飛ばしていった。
馬の体重は大きい。
たとえば、競走馬として有名なサラブレット種では、その体重は400キログラムにも達する。
そして胸甲騎兵たちが使用している軍馬は、その種類は様々であったがみな頑健で立派な体格をしており、サラブレット種よりも大きく、重いものが多かった。
その軍馬たちが時速60キロメートル以上の速度で体当たりをして来るのだ。
人間ではどうあっても支えきれない。
突撃の衝撃で、いくつかの歩兵中隊が一瞬で壊滅した。
跳ね飛ばされた将兵はそのほとんどが立ち上がれないほどの重傷を負うか戦死してしまっていたし、生き残った者も運が悪ければそのまま起き上がる間もなく馬蹄によって踏みつぶされてしまう。
運よく直撃を免れた者も、後から続いて突撃して来た騎兵が振るうサーベルによって喉笛をかき斬られ、地に伏していった。
戦場に取り残されたフランツの親衛隊。
その奮戦も、この突撃によって粉砕されようとしていた。