第508話:「人道と計算」
第508話:「人道と計算」
ノルトハーフェン公国軍の衛生組織。
前線のすぐ後方に外傷などの応急処置を行う包帯所を設け、そのさらに後ろにより本格的な治療を行う野戦病院、そして安全な後方地域に兵士たちに本格的な療養をさせることのできる兵站病院を準備し、負傷兵たちを受け入れる。
その三つの階層によって可能な限り負傷兵の生存率を高めようとする。
この戦場でもきちんとその役割を果たせるように体制が整えられていた。
前線から数キロ後方に包帯所があり、数十キロ後方にある街の近郊に野戦病院が設営され、軍医や現地で雇われた医師、看護師などが治療の準備を整えている。
そして今回の会戦においては、ヴェーゼンシュタットの病院が兵站病院として機能することとなっていた。
本来の計画ではノルトハーフェン公国の病院が使用されるはずだったのだが、敵軍を誘引するためにあえて補給線を危険にさらすという作戦を取っている以上、負傷兵たちを遥か北の病院にまで搬送することは難しい。
だからズィンゲンガルテン公国の公子ハインリヒなどと交渉し、搬送が可能な距離にあるヴェーゼンシュタットの病院の利用許可を取りつけている。
「いや、少し驚きました。
衛生隊のご支援をいただけるとは聞いておりましたが、これほどとは。
エドゥアルド殿の人道的なご配慮には、驚き、感心するばかりです」
ビスケットをかじる手を止め、衛生隊の働きぶりを熱心に観察していたユリウスがそう言うと、その近くでオストヴィーゼ公爵と同じように木の根に腰を下ろして携帯糧食で食事にしていたヴィルヘルムは小さく首を左右に振った。
「もちろん、我が主君はでき得る限り兵士たちの命を救い、任務を果たしたのちは通常の社会生活に復帰できるようにとお考えでございます。
しかし、残念ながら道徳のためにだけこのような組織を整えたわけではございません」
「と、おっしゃいますと? 」
「新しい時代の戦争の形に対応するためには、どうしても必要であるからでございます」
怪訝そうな顔を向けて来るユリウスにそう答えると、ヴィルヘルムはビスケットを頬張りながら、まるで茶飲み話でもするようにノルトハーフェン公国で衛生組織が設立されたいきさつを説明する。
人命を救う。
衛生組織が整えられた理由にはそういう、人道的な意味が確かに含まれてはいるものの、決して、そのためだけに作られたものではなかった。
負傷兵たちに適切な治療を施せば、彼らはやがて後遺症もなく十全な状態で回復することができる。
そしてそうなれば彼らは容易に社会に復帰していくことができるだけでなく、再び、兵士として戦うこともできるのだ。
ノルトハーフェン公国軍の参謀総長、アントン・フォン・シュタムは、徴兵制などの導入によって軍の規模が拡大していけばやがて、戦争は1回の大規模な会戦では終わらず、複数の連続した会戦によって勝敗が決着するようになるだろうと予測している。
すなわち、将来の戦争はこれまでにない多くの兵士が動員されることで激しい戦いとなりながらも、容易には決着がつかない長期戦になっていくかもしれないという見通しを持っているのだ。
兵士は、士官ほどではないものの十分に役割を果たせるようになるまで教育するのに時間がかかる。
新兵を初めから育てるのでは、戦闘で生じる損耗を補填するのが間に合わなくなるかもしれない。
そういった観点から、負傷兵を可能なら戦線に復帰させるという考えが注目されたのだ。
彼らは負傷して戦闘力を失ったが、ひとたび傷が癒えれば、十分に訓練を積んだ、しかも戦闘経験を持ったベテランの兵士と見なすことができる。
こういった、ある種の冷徹な計画によってノルトハーフェン公国軍の衛生組織は誕生した。
これには、徴兵制を敷く以上、兵士たちに生存する望みを与えなければ、父や夫、息子を兵士に取られることとなる民衆から強い反発を受けるのに違いなく、そのような不満が生じることを未然に防ぐという思惑もある。
自身の、あるいは家族の命が粗雑に扱われることを知って喜ぶ人間など、まずいないだろう。
ノルトハーフェン公国軍の衛生組織の活動は、こうした、人道と計算の上で成り立っているものだ。
(戦争遂行能力を高めるために、か……。
恐ろしくもある、が、兵たちにとっては間違いなく、彼女たちは救いの天使であるのだろうな)
ヴィルヘルムに話の礼を言い、食事を再開したユリウスは、空恐ろしい気持ちと必死に負傷兵の治療を行ってくれている人々への感謝の気持ちを同時に抱いていた。
確かに衛生組織というのは計算の上に成り立っている。
戦争に勝つためという、冷たい計算の上に。
しかし、今、この場で治療を続けている人々の気持ちはそれとは関係のないものであるのに違いなかった。
1人でも多くの命を救いたいから。
その思いで彼ら・彼女らは危険な前線にまで足を運び、一心不乱に傷の手当てを続けているのだろう。
そうでなければ、あれほど真剣に、熱心に行動し続けることなどできないだろう。
軍医も看護師たちも冷静ではあったが、その仕草にはその心の内側で強くあり続ける、人間としての良心や正義の心があらわれているように思えた。
(彼女たちは、立派だな)
懸命に軍医の助手をし、痛みに苦しむ兵士を励ましているルーシェの姿を観察しながら、ユリウスは彼女のことを見直していた。
いつもエドゥアルドの側で働いているメイド、としか思っていなかったが、その横顔は真剣そのものであり、自分にできる限りのことを惜しまずに施すという決意に満ちている。
その横顔は幼さも残ってはいたが凛々しく、そして、美しく思えた。
治療を続ける人々の心は兵士たちにも伝わっている様子だ。
彼らはみな戦闘で疲れているはずなのに、多くの者が自発的に立ち上がり治療の手伝いをしているし、傷を負ったまま身動きすることもできずにいた負傷兵たちはみな、その表情に希望を取り戻していた。
中には医師や看護師たちを神の使いだと言い、涙を流しながら祈りの言葉をくり返している者までいる。
元々公正軍の将兵の戦意は高いものであったが、農場の奪取に成功した時よりも、今、こうして負傷者の手当てがなされている時の方がより一層、兵士たちの心を打っているようだった。
自分たちは使い捨ての、容易に見捨てられる存在ではない。
その実感が、兵たちに新たな勇気を与えている。
「救いがあると信じられるからこそ、戦える、か……」
その様子を見て取ったユリウスは、この日の光景を決して忘れるまいと、兵士たちの心がどんなものであるのかを常に心の片隅にとどめ置くべきだと、深く自身の記憶に刻み込んだ。




