第503話:「勝機:1」
第503話:「勝機:1」
グラオベーアヒューゲルの東側。
この決戦の場全体を見渡すことのできる要所。
そこの奪取に成功したという事実は、ほぼリアルタイムにエドゥアルドたちに伝わった。
なぜならその高地にひるがえったオストヴィーゼ公国軍の軍旗は、公正軍の本営からも視認することができたからだ。
破壊され、炎上する農場の廃墟から立ち上る黒煙と、激しい射撃戦のために生じた霧のように漂う硝煙の雲。
その中で誇らしげにかかげられた軍旗は、弾痕によって抉られ、血と煤にまみれていた。
「よし。すぐに、僕たちも出撃しよう。
すべての予備兵力を持ってユリウス殿を増援し、全軍の右翼方向から敵の前線を打ち破り、決定的な勝利をつかむのだ! 」
その光景を自身の目で直接確かめたエドゥアルドは背後を振り返り、そこにひかえていた幕僚たちに向かってそう命じていた。
これは、勝機であるはずなのだ。
奪取した農場を起点として攻撃をかけ、予備兵力を投入して態勢を崩しているはずの敵軍に対してさらなる打撃を与えれば東側全体の敵を敗走させることができ、この会戦に勝利をもたらすことができるのに違いない。
そう思っていたのだが、しかし、エドゥアルドの言葉に、参謀総長であるアントン・フォン・シュタムは、落ち着いた様子で首を左右に振って見せた。
経験豊富であるだけでなく、先見の明を合わせ持っているはずの宿将が、絶好の勝利の機会をつかむことに反対している。
そのことに少年公爵は怪訝に思うのと同時に、憮然としてしまった。
「なぜだ、アントン殿。
ユリウス殿が見事、農場を奪取してくれたのだ。敵の守りは崩れている。
ここを一気に突けば、この会戦の勝敗を決定づけることができるのではないか?
それに、素早く増援を差し向けなければ、敵軍の逆襲によってユリウス殿が危ない。
僕は、義兄弟であり盟友であるユリウス殿の下に向かい、共に戦いたいのだ」
「殿下のおっしゃることはごもっともであると存じます。
しかしながら、敵もまた、これを機に我が方が予備兵力を投入し、勝負を決めに来るということを予測しているのに違いないのです」
敵が態勢を崩しているはずの東側からさらなる攻撃をかける。
その作戦の有効性を認めつつも、アントンはなぜ自分がそれに反対するのかを冷静に説明していく。
「敵はすでに2万余りの予備兵力を西側の前線に投入しておりますが、未だ、ベネディクト公爵が直接率いている兵力が残存しております。
おそらく、我らが東側に予備兵力を投入すると予想し、ベネディクト公爵は自ら最後の予備兵力を率いて東側に展開するでしょう。
加えて、東側の敵軍を指揮しているリヒター準男爵は、なかなかの戦術家であります。
農場を取られて一時混乱し、後退を余儀なくされたとしても、すぐに部隊を掌握して態勢を立て直してしまうでしょう。
以上の点を考え合わせますと、我が予備兵力のすべてを投入して一気に攻勢をかけたとしても、敵はすでに態勢を立て直しており、打ち破るのは容易ではなくなっておりましょう」
「しかし、ユリウス殿にのみ苦汁をなめさせるわけにはいかぬ。
僕と彼とは、艱難辛苦を共にし、その後の栄光も分け合うと約束している間柄なのだ」
エドゥアルドにはアントンの言わんとしていることは理解することができた。
敵軍が予備兵力を東側に投入するのは間違いなく、そうして態勢を立て直されてしまったところにこちらが攻め込んで行っても、それは正面からのぶつかり合いになってしまう。
勝てない、とは思わない。
公正軍の戦意は旺盛であり、互角以上の戦いができるのに違いないからだ。
だが、敵軍と真っ向からぶつかり合えば、軽視できない損害を被ることとなる。
計算の上でも心情の上でも、そのような大きな犠牲を強いたくはない。
それに、最悪なのはベネディクトを取り逃がすということだった。
もし東側で正面対決をすれば敵は頑強に抵抗し、不利と見れば徐々に後退するのに違いない。
そしておそらくは、そこにつけ入るべき隙など生じない。
ベネディクトの政治姿勢はともかく、その軍事指揮能力については相応の物があると評価せねばならなかったし、その副将には歴戦の勇将であり、アントンも一定の評価をしている優れた指揮官であるリヒター準男爵がついている。
もしこの会戦でベネディクトの戦力を無力化することができなければ、彼は本拠地に戻ってさらなる抗戦を試みるかもしれない。
皇帝になることが無理でも、より有利な条件で講和を結び、可能であれば自身の影響力を残すために、彼は戦うかもしれない。
ヴェストヘルゼン公国は峻険な山岳地帯がその国土のほとんどを占めている、天然の要害だ。
攻略しようと思えば大きな犠牲と、長い時間をかけなければならないだろう。
だからアントンは、ベネディクトとの正面対決となる東側で勝負に出るのは良くないと言っている。
それは理解できたが、しかし、エドゥアルドは盟友であり義兄弟であるユリウスの下に行きたかった。
彼は、命をかけて農場を奪取したのだ。
そんな盟友の隣に立ち、共に戦わなければ、こちらの立つ瀬がない。
「ユリウス公爵と栄光を等しく共有なさるおつもりであるのならば、まずは、この会戦においてより完全な勝利を得なければなりません。
殿下のお気持ちは私も承知しておりますが、しかしながら、他により良い策がある以上、賛成することはできません」
主君の強い要望をくみ取りつつも、アントンは頑なだった。
彼がかつて帝国陸軍大将で、タウゼント帝国軍20余万の指揮を皇帝に代わって取っていた時には、こんな態度は見せなかった。
相手が皇帝であるからというのもあるのだろうが、それ以上に遠慮する気持ちが強かったからだ。
だが、今のアントンは、自分の信念に従い、断固としていた。
エドゥアルドに対して臣下として仕えるのと同時に、この若き公爵のことを半ば自らの弟子のように思っているということと、意見が対立したとしてもきちんと説明すれば理解され、受け入れてもらえるのに違いないと、信頼しているからだった。
「より良い策、というのは、どのようなものなのか? 」
少年公爵はまだ釈然としない様子だったが、それでもこの宿将の言葉を聞くためにそうたずねて来る。
そんな彼のことをまっすぐに見つめながら、アントンは重々しくうなずき、短く自身の作戦を伝えた。
「東ではなく、西から攻撃を仕掛けます」




