第490話:「決戦の朝」
第490話:「決戦の朝」
東の夜空の暗さが、徐々に薄くなっていく。
星が消え、空の色合いが藍から青に色合いが変化し、やがて地平線に接する部分が赤みを帯び始める。
決戦の朝が訪れようとしている。
その日、公正軍と連合軍の雌雄を決するために集まった将兵はみな、誰もが早起きだった。
まだ太陽が顔を見せない内から起き出した彼らは手早く朝食を摂り、装備を身に着け、隊伍を整える。
彼らには決戦が長引くことに備え事前に用意されていた2日分の携帯口糧とウイスキー180ミリリットルが配給され、この他には当然、弾薬類も規定数が支給されている。
そうして装備を整えた兵士たちは、まだ太陽が顔を見せる前に前進を開始した。
一定のリズムで奏でられるドラムに合わせ、整然と、無駄な言葉は一切発することなく進んでいく。
やがて前方警戒に当たっていた騎兵が敵の姿を薄明りの中で確認すると、兵士たちは行軍隊形を解き、戦闘態勢に展開していった。
歩兵部隊による戦列が組まれ、兵士たちは背負って来た背嚢を下ろして身軽になり、銃に弾薬が装填される。
砲兵隊は重い野戦砲を馬に鞭打ち、あるいは自分で押したり引いたりしてできるだけ有利な射撃位置に運び、騎兵部隊は歩兵部隊の両翼、後背を支援できる位置につき、軽歩兵は歩兵の戦列の前方で散兵線を敷いた。
そうしているうちに、東の地平線に太陽が昇る。
空には濃紺、青、橙、赤というグラデーションが描かれ、そのまばゆい輝きに多くの者が目を細めた。
本格的に朝日が昇ったことで世界は一気にその明るさを増し、戦場の全体像が浮き彫りとなる。
そこは、グラオベーアヒューゲル、灰色熊の丘と呼ばれている地域だった。
落差が10メートルから20メートルほどある丘がうねうねとあちこちに盛り上がっている丘陵地帯で、周囲には森林と農地が広がり、せいぜい数百人程度が暮らしているだけの小さな村々が点在している。
ここにグラオベーアヒューゲルと名がついたのは、民間の伝承で、旧い時代にはこの場所に灰色の毛並みを持った巨大で凶暴な熊が住んでいたとされているからだ。
かつて人々はこの熊の存在を恐れ、この地に近づこうとはしなかった。
熊の毛皮は分厚く頑丈で、剣や槍、弓矢をまったく寄せつけず、逆にその強靭な牙と爪は騎士の頑強なプレートメイルでさえも貫き、切り裂いたからだ。
しかし、伝説によれば熊は火薬で鉛の弾丸を発射する銃を持った勇敢な猟師によって退治され、以来、この地は開拓されて、人間の住む場所となったのだという。
銃によって切り取られ、人間のものとなった土地。
そこに再び、無数の火薬が爆ぜる音が轟くこととなる。
住民たちはみな、前日に連合軍と公正軍がこの辺り一帯を挟んで野営に入ったことからここが決戦の場になることを悟り、すでに逃げ散った後である様子だった。
よほど慌てて出て行ったらしい。
家々の窓や扉には開けっ放しにされているものもあり、住民たちが持ち出そうとして取り落とした家財道具などが点々と通りに散らばっている。
近くの放牧地では、ここでこれから何が行われるのかを理解していない家畜たちがのんびりとたむろしていて、朝露のしたたる新鮮な青草を実に美味そうに食んでいた。
飼い主たちが姿を消してしまい、一時の自由を謳歌している様子だったが、しかし、逃げ遅れた彼らはみな、地獄を目撃することとなるだろう。
ベネディクトとフランツの連合軍15万はこのグラオベーアヒューゲルの北側一帯に、エドゥアルドの公正軍11万5千は南側一帯に布陣し、対峙している。
その戦闘正面は、おおよそ4キロメートル以上もあり、東西に一線を引くように形成された。
標高は東側がもっとも高く、中央で低くなり、西側で再び盛り上がる。
総兵力が大きい分、若干だが連合軍の両翼の方が広かった。
横合いからさっと差し込んだ朝日によって、かかげられた無数の旗が照らし出され、南東から吹く風によってかすかにたなびいている。
そしてその旗の下では、兵士たちが身に着けた軍服の装具や、担いでいる銃の銃口が、キラキラと剣呑に輝いていた。
同じタウゼント帝国に所属する者同士の戦いではあったが、連合軍と公正軍の将兵の見分けは問題なく行うことができそうだった。
というのは、タウゼント帝国軍の軍装というのは皇帝の直営軍のものを基本としつつも、実際に兵力を抱えている各諸侯にデザイン面で多くの裁量が認められていたからだ。
たとえば、エドゥアルドのノルトハーフェン公国軍は濃紺を基調とした軍服で統一されている。
ノルトハーフェン公爵家を象徴する舵輪の紋章が描かれた軍旗もすべて、濃紺色の布地が使われている。
これに対して、たとえばベネディクトのヴェストヘルゼン公国軍は緑系統の軍装だったし、フランツのズィンゲンガルテン公国軍は白系統、ユリウスのオストヴィーゼ公国軍は茶色と、色が使い分けられている。
そしてそれ以外の各諸侯の兵士たちというのはそれぞれにとって関係の深い公爵家の軍服にデザインをよせている傾向があり、連合軍は緑と白の系統が、公正軍には濃紺と茶色の系統の軍装が多くなっている。
互いに[敵]の姿をはっきりと視認した両軍の間では、一気に緊張が高まっていた。
兵士たちは元々口数が少なかったがほぼ完全に無言になって命令を一切聞き逃すまいと注意を払っているし、中には、自分に弾丸が命中しないようにと、静かに神に向かって祈りを捧げている者、恐怖を紛らわせるために配給されたウイスキーをスキットルから喉の奥へ流し込む者もいる。
「公爵殿下。
敵軍も、我が方も、戦闘準備が整ってございます」
この戦いの間の本営と定めたひと際高い丘の上から固唾を飲んで敵の様子を眺めていた少年公爵に、参謀総長のアントンが落ち着いた声でそう報告する。
直接言われはしていないが、それは、公正軍の総司令官であるエドゥアルドにいつ攻撃開始の号令を発するのかとたずねているのだ。
そのことが理解できる少年公爵は、ただ、黙ってうなずき返す。
自分が一言、命じるだけ。
それだけで、この、眼下に展開している無数の将兵は敵に向かって前進を開始し、戦いを始める。
そして確実に、その中から多くの者が命を失うこととなるのだ。
エドゥアルドはこれが初陣ではなかった。
彼はすでに兵たちに戦えと命じた経験があり、そして、自分自身も弾雨に身をさらしたことがある。
誰もが、少年公爵の命令を待っている。
その重圧を強く感じたものの、しかし、自分たちは今日、ここで勝利を得るためにこれまで様々なことを積み重ねてきたのだと思い起こしたエドゥアルドは、兵士たちに攻撃せよと命じるため、自身の右手を空に向かって高々と掲げた。




