第489話:「遠謀」
第489話:「遠謀」
夜食を用意しに天幕から出て行ったルーシェは、いつもよりも少し長く時間をかけて戻って来た。
そしてその手には、保温ポッドと深皿、スプーンなどが入った籠を持っている。
イスに腰かけ、テーブルの上に置かれたランプの明かりを頼りに戦史についての本を読みながら待っていたエドゥアルドが書籍を片づけている間に、メイドは手際よく準備を整えていく。
今日の夜食は、アイントプフだった。
今日も、と言った方がいいかもしれない。
ノルトハーフェン公国軍の野営での夜食と言えば、アイントプフであることが多いのだ。
というのは、戦場においては手に入らない食材も多くあるし、大勢の兵士に振る舞うためには、具材を煮込んで作るスープ料理が都合がよい。
「使用人みんなで協力して、前方の警戒をしてくださっている兵隊さんたちや、エドゥアルドさまの周りを警護してくれている兵隊さんたちのために作ったものなのですが、どうぞ、お召し上がりくださいませ」
「ああ、ありがとう」
ルーシェは公爵のような大貴族に食べさせるために作ったものではない粗末なものだからと少し申し訳なさそうな様子だったが、少年公爵はそんなことは気にしなかった。
確かに地位のある彼は普段から美食を食べ飽きるほどだったが、だからこそ、兵たちが食べているアイントプフの素朴な味が嬉しいのだ。
具材はじゃがいも、ニンジン、玉ねぎに豆類が加わり、そこに干し肉を刻んだものが混ざっている。肉類はソーセージなどを使うことが多いのだが、補給線が断たれている現状では手に入らない材料もあり、あるものでなんとかするしかない。
しかし、そのあるものをなんでも一緒に煮込んで、美味しく食べるというのがアイントプフという料理だった。
それにルーシェたちが作るものは、一般家庭で食べられているものよりもほんの少し手が込んでいる。
彼女たちは西の隣国がまだ王政を敷いていた時代に発達したアルエット王国の宮廷料理の方式を取り入れ、フォンと呼ばれる出汁を取ってスープに加えている。
それが単純で素朴な味わいに深みと旨味を加えていて、ただのアイントプフだと思ってそれを口にする者たちに驚きと喜びを感じさせる味わいになっているのだ。
この日の出来栄えも、文句のつけようはなかった。
ズィンゲンガルテン公国の民衆はエドゥアルドたち公正軍に期待していた以上に友好的だったから、もしかすると近くの農民たちから良い材料を買いつけることができたのかもしれない。
夜食を喜んで食べ進めていたエドゥアルドだったが、ふと、給仕をしてくれているルーシェが、歯に物が詰まったような表情をしていることに気がつく。
主が自分の作った物を喜んで食べてくれていることを幸せだと思っている様子でその表情は微笑んでいたが、しかし、なにかで悩んでいる様子だった。
「どうした? ルーシェ。
もしかして、お前も一緒に食べたいのか? 」
「あ、いえ、そんな、そういうわけではなくてですね……」
怪訝に思った少年公爵がスプーンを止めてたずねると、彼女は黒髪のツインテを揺らしながらぶんぶんと首を左右に振る。
「なんだ、言ってみればいいのに。
どうせ明日のためにやるべきことはすべて済んでいるんだし、僕も、後は寝るだけだ。
眠くなるまで、お前の話を聞く時間くらいはあるさ」
「は、はぁ……。でしたら、その、お言葉に甘えて……」
主の優しい言葉にメイドは少し嬉しそうにはにかんで笑い、それから、申し訳なさそうな顔をしながら自身の考えを口にする。
「なんていうのか……、少し、出来過ぎかなぁ、って」
「出来過ぎ、というのは? 」
「今の状況が、です。
私たちって、ノルトハーフェン公国を留守にして、兵隊さんをみんなこの場所に連れてきているじゃありませんか。
それに、ユリウスさまたちも、他の諸侯の方々も、みんな、背後の守りを気にしないで出陣してきています。
これってなんだか、私たちにとって都合がいいというか、なんというか。
エドゥアルドさま、覚えておいでではございませんか?
前オストヴィーゼ公爵、クラウスさまと国境を巡って対立された時に、ヴィルヘルムさまがしてくださった、「A国、B国、C国」のお話。
もしB国が、つまりは私たちがC国から利益を引き出そうとする際には、背後のA国を味方につけておかなければならない。そうでなければ肝心な時に背後を突かれて窮地に陥る、という。
今の状況が、まさにそうだな、って」
「つまりお前は、ヴィルヘルムが、最初からこうなることを予期していた、というよりも、そうなるようにうまく誘導して来たと、そう言いたいわけか? 」
「そうなのです。
なんだかみんな、ヴィルヘルムさまの構想に沿って動いて来たような感じがして……。
もしかすると、ヴィルヘルムさまは最初から、エドゥアルドさまを皇帝になさろうと、そういう方向に進めて行こうとお考えだったのかもしれないなって、そう思ったのです」
その指摘に、少年公爵はスプーンを置き、身体の前で両腕を組んで、考え込んでしまう。
現在の状況がすべてヴィルヘルムの思惑通りだとはさすがに思わなかった。
皇帝、カール11世が事故に遭い、突然に意識不明となることなど、いくら彼が優れた知略を誇っていようと予想できるはずがないからだ。
しかし、もしもエドゥアルドが大志を抱き、その視線をノルトハーフェン公国からタウゼント帝国全体へと向けた時に、背後を気にせず、その全力で挑んでいくことができるような状況を生み出そうと画策して来たのかもしれないというのは、信憑性のあることのように思えた。
オストヴィーゼ公国との盟約と、周辺諸侯と友好関係を築いていくという基本方針。
それは少年公爵自身の考えと合致していたというのもあったが、強力に後押ししたのはヴィルヘルムだった。
その努力によって、今、皇帝を目指すエドゥアルドの手元には合計で12万もの兵力が集まっている。
すべて、オストヴィーゼ公国と盟約を結んだことから始まっているのだ。
そしてこれは、ヴィルヘルムの進言によって出来上がった状況、とも言うことができた。
「考え過ぎ、……とまでは言えないだろうな」
エドゥアルドはそう結論づけると、再びスプーンを手に取り、夜食を摂るのを再開する。
「確かに、ヴィルヘルムは最初から僕を皇帝に、と考えていたのかもしれない。
ルーシェの言う通り今の状況は、僕がそうなろうと望んだ時に、しっかりと進んでいくことができるように足元が固められている。
そしてそうなるように後押ししてきたのは、ヴィルヘルムだ。
だけど、僕が皇帝になることをヴィルヘルムがずっと前から望んでいたとしても、結局は、明日の決戦に勝利できなければなんにもならない」
「そ、そうでございますね、エドゥアルドさま」
「だから僕は、その件についてあまり考え過ぎないことにするよ。
続きは、明日の戦いに勝ってから、必要なら考えるさ。
たとえこれがヴィルヘルムの思惑通りなのだとしても、関係ない。
その行き着く先は結局、僕自身の望みでもあるのだから」
(そう。これは、僕自身が望んだことなんだ)
最近ようやくエドゥアルドたちにその本心を見せるようになってきたヴィルヘルムにまた新たな謎が生まれてしまったが、今の少年公爵にとっては、その疑問は重要なことではなかった。
ルーシェもまた、それを指摘することによってなにかをしたいというわけではなく、ただ気になっていた、というだけだろう。
今の状況が、まだ知らないヴィルヘルムの真の望み、遠望によって作られてきたものなのだとしても。
彼が、エドゥアルドを皇帝にするべく、ずっと以前から画策していたのだとしても。
その行き着く先、目的地は、少年公爵の望みと合致している。
だとすれば、やることは1つだけ。
明日の決戦に勝利することだけだ。
そう思うと、なんだかもやもやとした迷いとか、不安とかがすべて吹っ切れたような心地になる。
こうしてエドゥアルドは夜食を摂り終えると、その後はしっかりとした眠りにつくことができたのだった。




