第488話:「決戦前夜」
第488話:「決戦前夜」
すべての準備は整った。
後は明日、実際にどのような指揮をとるかが問題だ。
だから今日のところは、少しでも良い休息を取っておかなければならない。
人の判断力というのは、睡眠不足などによって疲労が抜けておらず、頭がしゃっきりしていない状態では、往々にして誤ったものとなるからだ。
自身の天幕へと戻り、軍中での正装としている軍服から楽な私服に着替えたエドゥアルドだったが、しかし、容易には寝付くことができそうになかった。
無理にでも眠っておかなければならないということはよくわかっている。
それによって判断を誤ることとなれば、大勢の将兵が犠牲となるかもしれないのだ。
だが、そのことを思えば思うほど、どうしても寝付けなくなる。
皇帝になると、そう決心をした。
数千万の民衆の運命を左右する責任を背負うと、そう覚悟を固めた。
そのはずなのに、やはり、重苦しく感じる。
これは自分が背負うには大き過ぎるのではないかと、そう弱音を吐きたくなってしまう。
分解して持ち運び可能な簡易ベッドに横になり、目を閉じても、睡魔はなかなかやって来てはくれない。
むしろ自身の責任のことばかりが思い起こされて、目がさえてしまう。
「エドゥアルドさま。まだ、起きていらっしゃるのですか? 」
その時、天幕の外から少年公爵を呼ぶ声がする。
ルーシェの声だ。
作戦会議の間、参加する人々のためにお茶などを用意する仕事をこなしていた彼女だったが、エドゥアルドは会議が終わるとすぐに、今日のところはもう休んでおくように、自分も休むからと命じていたはずだった。
というのは、明日はメイドも忙しくなるのに違いないからだ。
もちろん、彼女が武器を手に取って戦うことなどない。
その代わりルーシェたち使用人は軍の衛生組織を構成し、負傷兵の治療や看護などのために忙しく働かなければならないのだ。
だからエドゥアルドは、彼女にも今日のところは早めに休んでおくようにと命じた。
少年公爵は呼びかけに答えなかった。
黙っていれば寝ているのだと安心して、メイドはすぐに帰るだろうと思ったからだ。
しかし、入り口の方で衣擦れの音がする。
どうやらルーシェはそっと、中に入って来た様子だった。
もしかすると彼女は、つけたままになっているランプの明かりを消しておこうとでも考えたのかもしれない。
天幕の中を見渡したメイドは、すぐにベッドに横になっているエドゥアルドのことを発見した。
「あら、もうお休みでしたか……」
小さく呟くその言葉は、安心したようにも、残念そうにも聞こえる。
それから彼女はそっとベッドに近づくと、なにもかけずに眠っているエドゥアルドに毛布をかけてやる。
それで、去っていくだろうと思った。
しかしメイドはなかなか立ち去ろうとしない。
「……こうして見ていると、普通の男の子と変わらないのにな~」
どうやらルーシェは、エドゥアルドの寝顔を眺めているらしい。
彼女がゆっくりと休めるように、寝たふりをしよう。
そう決めていたエドゥアルドだったが、さすがにその演技を続けていることができなかった。
寝顔をじっと見つめられているのは、なんだか恥ずかしいのだ。
「主の寝顔を観察とは……、いいご身分だな? ルーシェ」
「……ぅへっ!? へぁぁぁぁぁっ!? 」
突然目を開いた少年公爵が言うと、なんだか幸せそうなにやけ顔をしていたメイドは一瞬きょとんとし、それから、主が眠ってなどいなかったということに気がついて驚愕して、バタバタと慌てふためきながら勢いよく後ずさった。
そしてその背中がとんっ、とテーブルにぶつかると、その場に硬直して動かなくなり、ただ、はー、はー、と興奮からか呼吸を荒くして、胸元を手で抑えながら肩で息をしている。
「そ、その、申し訳ございません、エドゥアルドさまっ! 」
たっぷり10秒ほどそうしていた後、気恥ずかしと恐縮の気持ちで耳まで真っ赤になったルーシェはツインテールを激しく揺らしながら、深々と頭を下げてきた。
「ったく。
お前がゆっくり休めるように、わざわざ寝たふりをしてやったのに」
エドゥアルドはつっけんどんな口調でそう言うと、自身もわずかに頬を赤くしたまま、手でガシガシと自身の金髪をかく。
それから彼は、ジロリ、とメイドのことを睨みつけた。
「まさかお前、普段からこういうことをやっていたりするんじゃないだろうな?
その……、人の寝顔を観察する、とか」
「い、いえ、そそそそ、そんなことはっ!
普段からとか、そんな!
な、なかなかそんなチャンスはありませんしっ! 」
ルーシェは慌てふためきながらブンブンと首を左右に振ったが、その慌てようは、自身の罪を自白しているようなものだった。
チャンスさえあればそうしていると言っているのと同じだし、おそらく過去に同様のことをしたこともあるのだろう。
(今度から、寝る時は扉に鍵をかけてやる)
エドゥアルドは内心でそう決意しかけて、それは実行しても意味がないことだと気づく。
というのはこのメイドは職務上の都合で、ノルトハーフェン公爵家の居城であるヴァイスシュネーのすべての部屋にアクセスするマスターキーを持ち出す許可を持っており、たとえ部屋に鍵をかけたところで出入りし放題であるのだ。
自身の身の回りのことを手伝ってもらうというメイドとしての仕事をクビにでもしない限り、こういった事態の再発防止は不可能だということだ。
そして、確かに寝顔をじっくり間近で観察されたのは不満ではあったが、その程度のことでは彼女をクビにしてしまおうとまでは思わない。
「えっと、その……、あの、眠れないのでしたら、お夜食とか、どうでしょうか……? 」
困ったとため息を吐くエドゥアルドに、まだ赤面したままのルーシェが、バツが悪そうな様子で、横目でたずねて来る。
とにかく一度この場から離れて冷静になる口実が欲しいといったところなのだろう。
「ああ、それじゃぁ、せっかくだしもらおうかな」
そんな彼女の気持ちが理解できることと、実際に小腹がすいてきていたこともあって、少年公爵はそう言ってうなずいてみせていた。




