第486話:「計略」
第486話:「計略」
時間は、ほんの少しだけさかのぼる。
それは、エドゥアルドがヴェーゼンシュタットを占領するための措置を終え、こちらへと向かって来る敵軍をなるべく有利な位置で迎え撃つためにUターンし、北上し始める前のことだ。
「公爵殿下に、申し上げたいことがございます」
ヴィルヘルム・プロフェートがそう切り出したのは、少年公爵が公正軍に参加している諸侯や主要な将校との最後の打ち合わせを無事に終え、自身の天幕に戻って、ほっとしながらコーヒーを楽しんでいた時のことだ。
「む……。さきほどの打ち合わせではなにも言わなかったのに、なにか、急に思いついたことでもあるのか? 」
「いえ。ただ、これはあまり表ざたにしたくはない事柄なのです」
怪訝に思いつつ確認してみると、エドゥアルドのブレーンであるヴィルヘルムは短い言葉で、自身が打ち合わせの際には黙っていた理由を説明する。
表ざたにしたくはないこと。
すなわちこれは、軍の他の諸侯や将校には知られたくない、そうする必要のない事柄であるということだった。
おそらくは、計略の類に違いなかった。
「わかった、聞こう。
ルーシェ、すまないが、少し人払いをして来てくれないか? 」
そう察知した少年公爵はすぐにうなずいてみせ、側で働いていたメイドにそう頼む。
するとルーシェはなにも言わずにただうなずき、軽く会釈をして天幕を出て行き、警護の兵士たちに少し距離を取って、しばらく誰も天幕に近づけないようにと主の命令を伝え、そして自身は天幕の周囲を念のために一周して、他に聞き耳を立てている者がいないかどうかを確かめる。
「それでは、私もこれで失礼いたします」
戻って来たメイドは人払いが済んだことを報告すると、自身もいない方がいいと心得ている様子で、一礼して天幕を出て行った。
「……さて、ヴィルヘルム。
いったい、なにを考えついたのだ? 」
「敵軍の兵力を、戦わずして削ぎます」
自身の目の前に広げられていたコーヒーセットとお茶菓子を脇に押しやり、テーブルの上に両肘をついて顔の前で腕を組んだエドゥアルドが上目遣いに探るように問いかけると、ヴィルヘルムは軽く一礼してから単刀直入に答えた。
「戦わずに敵軍の兵力を削ぐ……、それができるに越したことはないが、どうしようというのだ? 」
「敵陣に2つの噂を流します。
まず1つは、ヴェーゼンシュタットは平和裏に占領されたという事実についてです。
公爵殿下は略奪や暴行の一切を禁じられ、その命令は厳守されました。
違反者は事前の約束通り逮捕されて当局に引き渡され、こちらの法ではなく、ズィンゲンガルテン公国の法によって裁かれることともなりました。
敵軍、特に正当軍の将兵の中には、ヴェーゼンシュタットに縁故を持つ者も多いことでしょう。
そして、殿下が示されたご温情、我が軍の厳粛な綱紀を知れば、家族が無事であったことに多くの者が安堵し、そして、昨年に殿下が決死の覚悟で彼らに手を差し伸べたことを誰もが思い起こすことでしょう。
正当軍の兵はみな、平民です。
殿下が彼らの家族を害せず、保護したことを知れば、自然とその戦意は衰えましょう。
それだけでなく、一部の貴族、将校たちに対しても、同様の効果を見込むことができます」
「なるほど、な……。
それで、敵中に流すもう1つの噂とは、なんだ? 」
「ズィンゲンガルテン公爵が、ヴェーゼンシュタットの民衆に対し「肉壁となれ」と命じたことを広めます。
1つめの噂と合わせれば、公爵殿下の公明正大さ、寛大さが際立つのに対し、ズィンゲンガルテン公爵の傲慢さ、冷酷さが浮き彫りとなることでしょう。
モーント準伯爵は、こうおっしゃいました。
民衆を肉壁にせよと命じるお方に向ける忠誠心は、自分にはない、と。
これは紛れもなく、モーント準伯爵の本音であったことでしょう。
そしておそらくは、正当軍の多くの将兵にとっても、共通する思いであるのに違いありません。
ですから、この2つの噂を敵中に流すことにより、戦わずして敵軍の兵力を大きく損なうことが叶うでしょう」
ヴィルヘルムの言っていることは、エドゥアルドにも容易に理解することができた。
フランツはヴェーゼンシュタットの民衆に対し、肉壁になれと命じた。
それは、従軍している将兵たちの家族に向かって、身一つで盾となり、自身のために犠牲になれと命じたということになる。
そのことを知れば、兵士たちはみな、フランツのために戦おうなどとは考えなくなるだろう。
今、ズィンゲンガルテン公国軍の兵士の多くは、徴兵された兵士たちだった。
金銭目的で契約を結んだ傭兵ではなく、公爵の命令によって兵士にされた者たちだ。
ズィンゲンガルテン公爵は一昨年に怒ったラパン・トルチェの会戦で多くの兵を失い、それを補填するために、エドゥアルドのように平民に対して権利を拡大するわけでもなく一方的に平民たちを徴兵した。
もしそうして兵になった者たちが真剣に、自ら積極的に戦うとするならばそれは、故郷や家族を守るためであるはずだ。
その、兵士たちにとって守るべき相手である家族をフランツは危険にさらし、エドゥアルドは保護した。
兵士たちの心がどちらに向くのかは明らかだった。
「わかった。戦わずに敵の力を削げるというのなら、それに越したことはない。
しかし、どうやってこの噂を敵中にばらまくのだ? 」
「我が軍も同様ですが、敵軍も、補給物資を得るために商人などと取引を行っております。
そういった者たちに紛れ間者を敵兵と接触させ、噂を広めさせようと考えております。
これには、ユリウス殿下にお願いして、オストヴィーゼ公国の諜報網のお力もお借りできれば、より確実であろうと思います」
ヴィルヘルムはどうやら、どうやって計略を実現するかについても考えてきていたらしい。
その説明に、エドゥアルドは満足そうにうなずいていた。
「ヴィルヘルム、貴殿の言う通りにしよう」




