第476話:「エドゥアルドの基盤」
第476話:「エドゥアルドの基盤」
敵は略奪を働くことができるが、こちらはそうすることができない。
このために、互いに補給が不足している状態になろうとも、結局はこちらの方が先に参ってしまうことになるのではないか。
その指摘は正しかったが、しかし、ヴィルヘルムはむしろ、我が意を得たりといった様子で、力強い笑みを浮かべていた。
「敵軍は略奪ができて、我が軍にはそうすることができない。
実を申しますと、これが、我が軍が南に進んでも勝利できるという第三の理由、そして、最大の根拠なのです」
エドゥアルドもアントンも、彼の考えが読めずに怪訝そうな顔をしてしまう。
相手より先にこちらの物資が欠乏し、戦う前に軍が瓦解する、このまま南に進んでしまったら必ず敗れるという決定的な理由になっていると思われることが、ヴィルヘルムにはまったく逆の結果を生じさせる要素として見えているのだ。
「エドゥアルド様。
殿下はこれまで、「統治とは、民衆のために行うものだ」という、理想主義的な信念を貫かれてこられました」
少年公爵をまっすぐに見つめながら発せられたその言葉。
それは、取り方によっては相手のことを小ばかにしているように聞こえるかもしれないものだった。
エドゥアルドはただ、ヴィルヘルムの言葉を聞いている。
なぜなら彼の視線はまっすぐで、その表情は真剣で、これは皮肉などではないということが理解できたからだ。
「公爵殿下はこれまで度々、ともすれば形骸化してしまいがちなその信念を、自身の行動によって実践されてこられました。
国内では、経済の発展と同時に民衆にある貧富の格差の縮小に取り込み、貧困層に職を与えてその生活を成り立たせてやり、それだけではなく、公国議会を開き、平民にも政治参加の機会を作って下さいました。
加えて、先年のサーベト帝国との戦争においては、ヴェーゼンシュタットの民衆を籠城の苦しみから救うべく尽力されました。
他の諸侯の方々が日和見を決め込む中、殿下と我々だけが実際の行動として民衆を救ったのです。
こうした実践によって、殿下はご自身の言葉が、かかげる理想が空虚なものではなく、本物であると、信じるに足る重みがあるということを証明されてこられました。
そしてそのことによって、殿下は得難い基盤を手にされているのです」
「僕の、基盤? 」
「はい。
それは、エドゥアルド様であれば、理想も空虚な絵空事ではなく、現実のものとできるのではないかという期待。
そして、今よりもきっと良い国にして下さるに違いないという、民衆からの信頼でございます」
それは、エドゥアルドが明確に自覚していなかったことだったが、指摘されてみると、確かに自分には理想を実現できるのではないかという期待や、自分たちの暮らしを良くしてくれるのに違いないという、民衆からの信望がよせられているということに気づかされる。
だからこそ、ベネディクトとフランツの行為に憤った諸侯が、自分自身では直接確かめようもない皇帝からの手紙という根拠を信じ、公正軍に参加した。
カール11世も、エドゥアルドに皇帝になれと、この国の未来を託した。
そして兵士たちはみな、自分が命をかけるのに足る戦いに身を投じているのだとそう信じ、元々は異なる指揮系統に属していたものをなんとか再編制して作り上げた軍隊であるにも関わらず、所属する全員が規律を保ち、まるで以前からそうであったかのように指揮系統を忠実に守り、念入りに装備を手入れして戦いの準備を怠らずにいる。
道中の民衆も、公正軍には協力的だった。
通過する街や村では度々、エドゥアルドたちが通過することを知った人々が自発的に物資を集めて役に立ててくれと寄付してくれたし、通過する兵士たちに対し、声援や、花吹雪で出迎えてくれた人もいた。
皇帝軍や正当軍が相手であれば、人々はまったく異なった反応を見せただろう。
彼らはその姿を見るや家の中に引きこもり、扉に鍵をかけ、窓の鎧戸を固く締めて、部屋の奥でガタガタと震えながら、両公爵の兵士たちが押し入ってこないことを祈るのに違いない。
だが、エドゥアルドが統率している軍隊であれば。
彼らは民衆に対して理不尽な略奪などを行わないし、なにより、自分の権力のためなどではなく、この国に生きるすべての人々の暮らしをより良いものにするために戦ってくれると、そう信じることができる。
「もし両公爵が再び帝国内で略奪を働くこととなれば、人々の心は決定的に離れることとなりましょう。
民衆は、殿下こそが新たな皇帝になって欲しいと心から望み、その実現のために自発的に協力してくれるようになるはずです。
そしてなにより、実際に戦う兵士とは、平民です。
それは我が方も、敵方も同様。
こちらの兵士は殿下のために命がけになって戦うのに違いありませんが、敵軍はそうではありません。
彼らの士気は振るわず、殿下を勝たせるために、あるいは自身の命を望まぬ形で失わないために、武器を捨てて逃げ散ることさえあり得ます。
そうした兵を指揮しては、どんな名将であっても勝利などできないでしょう。
実際に戦うこととなれば、打ち破ることは容易いはずです。
全力を尽くして殿下のために戦う最強の兵で、戦いたくないと願い、機会さえあれば逃げ出そうと考えている最弱の兵と戦うのですから、その勝敗は論じるまでもありません」
ヴィルヘルムは、これまでエドゥアルドが積み重ねてきたすべての事柄が力を発揮するのだと言っている。
そしてそれは彼の願望ではなく、現実に起こり得ることだと、そう信じるのに足りるだけの感触は、確かにあると、少年公爵自身も実感することができる。
人々は、自分のことを支持し、共感してくれている。
そしてそれこそが自身にとっての最大の力であり、基盤であるのだということを気づかされる。
エドゥアルドはちらり、とアントンの様子をうかがう。
最終的な決断を下す責任と権利を有しているのはこの少年公爵であったが、しかし、そうする前にこの経験豊富なだけでなく先見の明もある宿将の考えをもう一度、知っておきたいと思ったのだ。
アントンはまだ、気難しそうな顔をしていた。
やはり補給が途絶する恐れのある作戦を実行するのには、諸手をあげて賛成することはできないのだろう。
しかし彼は、エドゥアルドから向けられている視線に気づくと小さく嘆息し、それからゆっくりとうなずいてみせた。
「危険の大きい作戦です。
ですが、十分に勝算はあるものと思われます」
その言葉で、少年公爵の腹も決まる。
「よし。やろう!
全軍で南に、ヴェーゼンシュタットへ向けて進軍する。
この、つまらない内乱を一刻でも早く終わらせるためだ。
敵にこちらの後背をさらけ出す危険を冒すことでも、勝利に必要ならば恐れることはない。
両公爵を誘い込み、勝利をもぎ取ってみせよう! 」




