第440話:「ルーイヒ丘陵の戦い:5」
第440話:「ルーイヒ丘陵の戦い:5」
ルーイヒ丘陵の戦いの勝敗は、早々に決行された皇帝軍による突撃によって決したと思われた。
訓練不十分の兵士、未熟な士官・下士官。
質で劣る者たちで構成られた正当軍の前線は、皇帝軍の突撃によって一斉に崩れ去った。
正当軍には、踏みとどまった中隊もあった。
こうした中隊のほとんどは幸いにも経験豊富な指揮官に率いられていた者たちで、硝煙の向こうであがる喚声を聞き、敵が突撃してきたことに気がついて迎えうつ備えをし、心構えをすることができた場合。
後は、偶然射撃のタイミングが合い、敵の突撃をマスケット銃の一斉射で押しとどめることができた場合と、兵士たちの熱狂的な戦闘によって耐えた場合が、わずかに見られた。
しかし、そういった少数の奮戦も、大局で見れば意味はない。
他の多くの部隊が、なんとか踏みとどまったところの左右が崩れ、兵士たちが引き留めようとする士官・下士官の声も聞かずに我先にと逃げ出す始末では、わずかな部隊だけで前線を持ちこたえさせることは不可能だった。
しかも、正当軍右翼(皇帝軍左翼)を迂回して突破した敵の騎兵部隊が、後方を遮断しようとしている。
さらに悪いことに、ルーイヒ丘陵に展開している正当軍の数は、皇帝軍の先鋒を率いているリヒター準男爵の見立て通り、少なかった。
1万は超えるが、2万には届かない。
それは、皇帝軍の先鋒よりも劣っている数でしかなかった。
皇帝軍が帝都に到着する前に確実に捕捉できる見込みのある場所はこのルーイヒ丘陵しかなく、ここで確実に交戦できるよう、フランツは軍の一部を急かしに急かしてようやくたどり着いたのだ。
正当軍のほとんどはまだ戦場に到着することができていなかった。
これでは、全面的に崩壊する自軍をここから立て直すことなど不可能なことだった。
こうした事態に備えて兵力の一部を予備として前線の後方に配置しておくものだったし、フランツもそのようにしている。
この兵力があれば前線に穴が開いた程度であれば対処することはできたかもしれないが、この場合、前線そのものが消滅してしまったのだ。
敵の攻勢を受け止めるためには新たな防衛戦を構築し直さなければならず、そのために必要な兵力はどこにも残されてはいなかった。
ズィンゲンガルテン公爵・フランツは、敵の突撃を受けて逃げ散っていく前線の将兵の姿を指揮所と定めていた丘の上から遠望すると、悔しそうにほぞを噛み、悪態を吐きながら被っていた帽子を馬上から地面へと投げつけた。
彼の手元に残された予備兵力は、これまでの戦乱で衰弱していたズィンゲンガルテン公国軍に残された最後の精兵だった。
兵士たちは前線が崩れ、味方の将兵が敵の銃剣に追われながら、武器や装備を捨て、倒れた戦友を踏み越え、地面に伏した隊旗を踏み越えて逃げ散っていく様を目にしても動揺を見せず、隊列を組んだままフランツの命令を待っている。
「閣下。ここは我らにお任せになり、どうぞ、ご退却を! 」
彼らズィンゲンガルテン公爵の親衛隊を率いている指揮官がそう言うと、フランツは一瞬、その顔をまじまじと見つめた。
それは自分にあくまで忠節を果たそうとしてくれている臣下の顔をしっかりと目に焼きつけようとしているようにも、ここで逃げ出した後、自分に失敗を帳消しにするチャンスが巡って来るのかどうかを素早く計算しているようにも思える様子だった。
フランツは政治家気質で、戦場で勇敢に兵を叱咤して戦い、名誉の戦死を遂げることにはなんの美も見出してはいなかった。
そんなことは貴族の考えることではない。
高貴な、生まれながらに民衆を統治する権利と義務を背負った貴族は、潔く、雄々しく戦場で散ることなどよりも、どうすれば最終的な勝利を得られるのか、自身に流れる血を、長い年月を脈々と受け継がれてきた由緒ある血統を後世に残せるのか、それをこそ考えるべきだと彼は信じている。
幼いころからそのように教育された彼は、それ以外の思想を知らなかったし、戦場で戦って死ぬという行為を蛮勇だとしか見なしていない。
しかし、今回の場合は、考慮するべきであった。
自分はこの決定的な戦いに敗北したのだ。
ここから仮に兵を見捨てて逃げたとの汚名を背負ってでも生き延びたところで、その後の立て直しと逆転ができないのなら意味はないし、ベネディクトに押し込まれてズィンゲンガルテン公爵家が滅亡するようなことにでもなったら、目も当てられない。
長く帝国の南を固め、繁栄してきた、伝統ある大貴族。
その華麗な一族が滅ぶ際に醜かったのなら、その汚名がズィンゲンガルテン公爵家の最終評価として固定されてしまうのだ。
家を保ち、繁栄させる。
そのことが第一ではあったが、もしそうすることができないのであれば、美しい形で幕引きを[作る]。
それもまた、貴族の家に生まれた者の[義務]であった。
だからフランツは一瞬だけ悩んだ。
ここで踏みとどまり、兵たちと共に死ねば、少なくとも決定的な戦いに負けて無様に逃げ出したとの汚名は着ずに済むし、ズィンゲンガルテン公爵家が滅んだとしても、その最後を多少は美しく飾ることができるだろう。
もし逃げ落ちて再起の道がないのであれば、そうするべきであった。
命が惜しいというのは当然の感情としてあったが、貴族として育ち、それ以外の自分という姿を知らないフランツは、自ら命を絶つ覚悟は常に持っている。
それに、フランツには跡継ぎとして年頃の息子がいた。
少し頼りないなとは思っているものの、立派な青年であり、オストヴィーゼ公国で長く公爵の地位にあったクラウスが隠居してその後を息子のユリウスに譲ったように、フランツも息子に後を譲ることは考えたことがあった。
ここで自分が死んでも、息子が復讐戦を果たしてくれるかもしれない。
あるいは、首謀者である父が死に、勝敗は明らかとなったのだからもはやこれ以上の交戦は無意味だと、降伏を選んでくれてもかまわない。
ズィンゲンガルテン公爵家は、タウゼント帝国に5つしかない被選帝侯の1つだ。
そしてこの5つの家はみな同族だったから、フランツが死んだ後、新たな皇帝に即位したベネディクトによって様々な制裁は受けるかもしれなかったが、跡継ぎさえ無事であるのならば、家は滅ぼされずに残る可能性は高かった。
今は無理でも、いつか、後の世代では、復仇が果たされるかもしれない。
そう期待することもできるのだ。
いいや、私もここに残り、最後まで戦い、帝国貴族としての名誉をまっとうする。
後事を託すことのできる息子の存在に感謝しつつ、フランツがそう決心し、口を開いた時のことだった。
フランツの近くで、緊張した面持ちで周囲の状況を観察していた参謀将校の1人が、突然ある方向を指さして叫んだ。
「閣下、左翼方向に我が方の援軍が!
モーント大佐の部隊の旗です! 」
それは、ルーイヒ丘陵の戦いに勝利しつつあるように思えた皇帝軍のリヒター準男爵にとっても、敗北を受け入れつつあったフランツにとっても、意外な援軍の到着だった。




