第437話:「ルーイヒ丘陵の戦い:2」
第437話:「ルーイヒ丘陵の戦い:2」
ルーイヒ丘陵の戦いは、小銃による射撃の応酬で始まった。
というのは、どちらの陣営も、行軍速度を速めるために野戦砲などの重い兵器は後方の団列に置き捨てていたからだ。
騎兵も随伴してきてはいたがその数は限られており、戦局を決定づける際に投入する決戦兵力として温存された。
しばらくの間は、軽歩兵による射撃戦が続いた。
散開し、膝を立てたしゃがみ姿勢を取った軽歩兵たちが、銃口にライフリングを施されたライフル銃を使用して、互いに狙撃しあう。
マスケット銃の使用は基本的に立った姿勢で行われるものだった。
それは、前装式の小銃をもっとも素早く再装填できるのは立った状態でのことであり、互いに横隊を組み一斉射撃を浴びせ合うという戦闘形態で勝利を得るためには、相手よりも1秒でも早く再装填を完了して射撃することが肝要だったからだ。
だが、立った姿勢以外で射撃や再装填を行うことも、当たり前に行われていた。
特に軽歩兵のように、精度の良いライフル銃を使用して相手を狙撃するような場合には、立ったまま身体をさらすよりもしゃがんで少しでも被弾率を下げることが多い。
そうして軽歩兵同士の戦いが続いていたのだが、やがて、戦闘は戦列を組んだ歩兵同士による戦いへと移行した。
皇帝軍の先鋒部隊はリヒター準男爵の指揮で一時の混乱を収拾し、兵力を左右に展開させて戦闘隊形を整え、歩兵たちは横隊を組んでマスケット銃に装填を終え、銃剣を装備すると、勇壮で賑やかなドラムの音、笛の音をかき鳴らし、前進を開始した。
帝都へ向かおうとする皇帝軍を阻止しようとする正当軍もこれに応じて、戦列歩兵を前に出した。
軽歩兵部隊と交代させ、双方が、歩兵による横隊によって前線を形成する。
ルートイヒ丘陵の緩やかな斜面を、皇帝軍の将兵が登っていく。
決して走ることはなく、ドラムのリズムに合わせて歩調を整え、隊列を崩すことなく整然と、数千もの男たちが進んでいく。
この時代の戦争では、歩兵が戦場を走ることは滅多になかった。
それは、逃げる敵を追わねばならない時や、最終局面で銃剣突撃を実施する際には走ることはあったが、相手の戦列に接近し、射撃を加えようという時に走ることはない。
それは、マスケット銃を装備した歩兵による密集した横隊での射撃戦という戦法を、もっとも効果的に遂行するためだった。
マスケット銃の威力は、人間が身につけることのできる鎧であれば大抵は貫通し、絶命させるか戦闘不能にしてしまう。
しかし再度その威力を発揮させるためには装填をしなければならず、その間に銃兵は無防備になるだけでなく、そもそもマスケット銃の精度は芳しくなく、狙ったところに必ず弾が飛んでいく、というわけでもない。
低い命中率を補うために、銃兵を密集させるという手段が取られた。
単位面積あたりに放つことのできる弾丸の数を増せば、たとえ命中率が低くとも敵を打ち倒せるという考えだ。
そして、再装填中は無防備になる銃兵を守るためにも、この密集するということは必要だった。
それは、再装填中のわずかな隙を狙って容赦なく突撃をしかけて来る敵に対抗するためには、大勢の兵士を並べ、銃剣の切っ先をそろえさせて、鋭利な刃を連ねることが有効な対応策だったからだ。
マスケット銃の威力を最大限に発揮し、密集隊形による防御力を維持するためには、決して、隊列を乱してはならない。
だから彼らは決して走ることなく、砲弾が飛来し、同僚たちをなぎ払おうと、定められた速度で進軍する。
この時代の歩兵たちは歩調を乱さずに進退できなければならず、そうすることができるように訓練し、弾雨を受けても決して立ち止まらず、自らの射程へとひたすら前進することができるように教育される。
そうしてくり返される訓練の末に、兵士たちは人間的な生存本能を押し殺し、この殺人的な、事情を知らなければ狂気としか思えないような行進に従事できるようになる。
それができなくなった時が、敵に敗れる時だった。
ドラムを打ち鳴らし、笛を吹き鳴らし、軍靴の足音をそろえて、皇帝軍の兵士たちはルーイヒ丘陵の斜面を登っていく。
当然、その非人間的と思える機械的な動作をする間にも、兵士たちの心中には様々な思いが去来している。
ただし、その多くは同じ思いだった。
どうか、自分に弾が当たりませんように!
普段、神の存在など意識したことの無い人間であっても、この時ばかりはみな、神に加護を祈り、もし自身の生命がここで断たれるのだとしても、天国に迎え入れられることを願った。
皇帝軍を迎撃する正当軍は、敵が一定の距離にまで接近すると、一斉に射撃態勢をとった。
各中隊を指揮する士官が号令を発し、最前列の兵士は膝立ちの姿勢で、二列目の兵士は立ったままの姿勢で、マスケット銃の銃口を敵の横隊へと向ける。
前列の兵士が倒れれば自らが前に出なければならない三列目の兵士たちはみな、自身の目の前の視界が開けることがないように祈りをささげた。
やがて、マスケット銃の有効射程とされる距離に皇帝軍の横隊が入った。
「撃てッ! 」
そのタイミングを見計らい、正当軍の指揮官たちが号令を発し、その言葉が届いた瞬間、兵士たちは目の前の敵に向けて一斉に引き金を引いた。
無数の銃声。
黒色火薬の爆燃によって生じた濃密な硝煙によって瞬時に視界はさえぎられた。
そのベールの向こうで、銃声が消えぬうちに、弾丸をその身に受けた兵士たちが、悲鳴やうめき声を発しながら、バタバタと倒れる。
士官にも、下士官にも、兵士たちにも。
弾丸は平等に死を与えた。
それでも、皇帝軍の兵士たちは前進をやめなかった。
倒れた味方を、血を流し、激痛にうめき、この苦しみから救ってくれるように哀願する同胞の身体を乗り越え、死体を踏み越え、進み続ける。
なぜなら、前進を止めよ、という命令はまだ、出されておらず、激しくドラムが打ち鳴らされ続けているからだ。
その死の行進も、すぐに終わりを迎えた。
こちらの射程内にまで十分に接近したと判断した士官たちが行進を停止させる号令を発し、そして、兵士たちに銃をかまえさせたからだ。
両軍の兵士の間を覆い隠していた硝煙が、徐々に薄らいでくる。
すると、皇帝軍の兵士たちの目の前には、次の弾丸を1秒でも早く放とうと、怯え、焦った表情で必死に再装填のために槊杖を前後させている正当軍の兵士たちの姿があらわれた。
「かまえ! 」
そんな敵たちに対し、兵士たちは士官の号令によって、整然と銃を構える。
「狙えっ! 」
そしてその号令によって、兵士たちは、恐怖に両目を見開いている敵に向かって、狙いを定める。
「撃てッ! 」
そうして再び、戦場に無数の銃声が轟いた。




