第430話:「黒豹門:2」
第430話:「黒豹門:2」
黒豹門へ向かうために、エドゥアルドは馬車を使わなかった。
公爵ほどの身分となると通常、移動には馬車を用い、その権威を示すのと同時に身の安全を確保するモノなのだが、今はそんなことを気にしていられる場合ではなかった。
ベネディクトが黒豹門をくぐり抜け、玉璽を手にしてしまえば、エドゥアルドにはどうすることもできなくなってしまうのだ。
おかしなことだと思うかもしれない。
たかが門、たかが玉璽。
それをくぐり、それを手にしたところで、いったい何ほどのことがあるのだと言うのか。
門をくぐることなど、実行しようと思えば鼻歌を歌いながらでもできる。
ほんの数歩を要するだけのことだからだ。
そして玉璽などとありがたがってはいるが、それは一種のハンコに過ぎない。
もちろんそれは精巧な装飾が施された、純金と宝石の塊であり、この世に2つとない財宝ではあるのだが、物に過ぎないという点は変わりがない。
だが、黒豹門をくぐるたった数歩があまりにも遠く、片手でもてあそべる程度の質量しか持たない玉璽が惑星ほども重みをもつのが、この帝国という国家だった。
加えて、ベネディクトには大義もあった。
それは皇帝選挙において、たった1票ではあるものの彼が勝利をおさめたという[事実]だ。
黒豹門をくぐり、玉璽を手にし、その、帝国において絶対的な権威を振りかざして皇帝選挙の結果を押し通されてしまったら。
それに異議を唱えるために残される手段は、ただ1つ。
武力による反逆しか残らない。
エドゥアルドにはベネディクトの行動は暴挙としか思えなかったが、こうして考えてみると、ある意味では[合理的]なのかもしれなかった。
その結果が有効とはまだ認められてはいないものの皇帝選挙で勝利したのはベネディクトだったし、彼が皇帝としての権威を強引にでも奪ってしまえば、逆らえる者がいなくなるのも確かなのだ。
たとえ武力による反乱を起こしたとしても、ベネディクトはタウゼント帝国という国家の強大な力を利用して、それを粉砕することができる。
なぜなら、玉璽があれば帝国軍を動かすことができるからだ。
そういう風に帝国の制度はできているし、将校も兵士たちも、長い歴史の間ずっと維持されて来たその制度に反発する権限も力も持ち合わせてはいない。
逆らえば命令不服従で逮捕され、地位と財産を剥奪されてしまうだけだ。
取り返しのつかない事態に陥る前に。
エドゥアルドは自ら馬に乗り、わずかな手勢と共にツフリーデン宮殿へと急いだ。
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帝国の力を象徴するかのように荘厳で重厚なたたずまいを持つ、ツフリーデン宮殿。
厳かであるはずのそこは今、騒然とし、混乱の渦中にあった。
誰もが仕事の手を止め、不安と怖れをその顔に浮かべながら、黒豹門の方を見つめている。
そこには、黒豹門を塞ぐように整列した衛兵と侍従たち、そして手勢を率いたベネディクトの姿があった。
宮殿に馬で駆けつけ、エドゥアルドでも誰でも、この状況をなんとかできる者の到着を待ちわびていた衛兵に案内されながら現場に早歩きで向かった(宮殿内は走ることが禁止されている)エドゥアルドは、一瞬ほっとして表情を緩める。
ベネディクトがまだ黒豹門をくぐってはいなかったからだ。
だが、彼はすぐにまた表情を引き締めた。
エドゥアルドの制止を聞かず、ベネディクトが黒豹門をくぐろうとした場合に、どう対応するか。
それは、あまりにも難しい決断だったからだ。
言葉を用いても止められないというのなら、こちらも強硬手段に出るしかない。
身体を張って止めに入るか、それとも、武器を用いるか……。
万が一、流血沙汰になれば、それは収拾のつかない事態に発展するかもしれない。
そもそもの話、黒豹門で血が流されるなど、タウゼント帝国が始まって以来1度も起こったことの無いことであり、あってはならないことであるのだ。
「殿下。まずは我々の到着をベネディクト様に知らしめるべきです」
エドゥアルドが緊張に身を固くしながら進んでいると、緊急事態を知って同行して来たヴィルヘルムがそっと顔をよせて耳打ちをした。
「ベネディクト様のなさりようは暴挙と言うべきものです。
それでも、他がなにか対処する前に黒豹門をくぐり抜け、玉璽を手にしてしまえばどうとでもなるとお考えだったのでしょう。
そうであるから、これほどの強硬手段を取られたのでしょう。
しかしながら、黒豹門をくぐらない内は、まだ皇帝としての権勢を振るうことができません。
ですから、同じ公爵である殿下のお言葉は、無視することができません。
仮に強引に黒豹門をくぐろうとしても、それをお止めになる殿下を排除することもできません。
そんなことをして黒豹門をくぐったところで、もはやその行為に正当性を主張することはできず、諸侯を従えることも叶わないからです。
加えて、侍従殿はユリウス様の下へも向かわれました。
御両名で止めになれば、ベネディクト様も引き下がらずを得ないでしょう」
エドゥアルドはそのヴィルヘルムの言葉に、無言のままうなずいた。
ベネディクトは一気呵成にことを成してしまおうとしていたが、エドゥアルドが急いで駆けつけてきたことによって、その策の前提条件が崩れようとしている。
ベネディクトが強硬手段に出た場合にエドゥアルドが窮してしまうように、ヴェストヘルゼン公爵もまた、ノルトハーフェン公爵が強硬手段に出て身体を張って黒豹門をくぐることを阻止して来たら、対処に困ってしまうからだ。
もし黒豹門をくぐるより前にエドゥアルドを傷つけてしまえば、それは、同じ公爵の立場での傷害事件ということとなる。
それは帝国の国法ではあってはならないこととされているし、実際に血を流してしまえば、たとえ黒豹門をくぐることができたとしても[強奪だ]というそしりは免れ得ない。
エドゥアルドを強引に排除して黒豹門をくぐることはできないのだ。
それに、ここで時間さえ稼げば、盟友であるユリウスが到着する。
そうなってしまえばベネディクトとしても、ここで強引に黒豹門をくぐることはできなくなるに違いなかった。
ヴィルヘルムの進言で、エドゥアルドは自分のやるべきことを再確認することができた。
その足取りは確固としたものとなり、その表情からは恐れや迷いが消え、決意だけが残った、凛々しい、精悍なものだけが残る。
「ベネディクト殿! 」
そうしてエドゥアルドは、ツフリーデン宮殿に響き渡るような声を張りあげていた。




