第409話:「猶予はない:2」
第409話:「猶予はない:2」
外の新鮮な空気を吸って来たい。
そう宣言して、水掛け論の舞台へとすっかりなり果ててしまった夕食会の席を立ったエドゥアルドは、しかし、外へは行かなかった。
向かったのは、アルトクローネ公爵家がエドゥアルドのために用意してくれた部屋だ。
(疲れた……)
ギスギスした雰囲気での会食といい、自身の野心を叶えんとする者たちによる不毛な議論といい。
エドゥアルドは強い疲労感を覚えていた。
思うのは、ただ1つだけ。
メイドがいれたコーヒーを飲んで、ゆっくりとくつろぎたい。
ただ、それだけだ。
「あっ、おかえりなさいませっ! エドゥアルドさまっ! 」
部屋に戻ったエドゥアルドが警備についていたミヒャエル大尉たちに扉を開いてもらうと、そこには、彼が望んだとおりの笑顔があった。
「もう夕食会はお済なのでしょうか? 」
「ああ、いや、まだなんだが、少し気分を変えたくなって。
抜け出して来たんだ」
エドゥアルドが帰ってきたことの喜びを隠そうともしない笑顔でたずねてくるルーシェに、彼は安堵と疲れの入り混じった笑顔で答えると、メイドが引いてくれたイスに腰かけていた。
自然と、ため息が漏れる。
ノルトハーフェン公爵はまだ10代の半ばで、少年と言ってよい年齢だったが、今は自分が80歳代の老人にでもなってしまったかのような気分だった。
「エドゥアルドさま。
お夜食のご用意はおっしゃっていただければすぐにできますが、いかがいたしましょう? 」
そんなエドゥアルドに、メイドは期待するようにたずねて来る。
夕食会の料理なんて食べた気にならないだろうと言っていた少年公爵のために、彼女は約束通り、夜食を用意して待っていてくれたのだ。
「あー、いや、またあの場所に戻らなければならないんだ」
いったいどんな夜食を用意してくれているのかと楽しみではあったが、エドゥアルドは首を左右に振って断った。
ここで腰を落ち着けてしまいたいのは山々だったが、あくまで一旦外の空気を吸って来ると言っただけだから、戻らないわけにはいかなかった。
メイドは、あからさまにがっかりとした様子だった。
エドゥアルドに喜んでもらえると思っていたのにそうではなくなったのが心底残念、という様子で、しゅん、とうなだれる。
そんな彼女の様子に思わず微笑んでしまいながら、少年公爵はつけ加えた。
「でも、コーヒーが1杯欲しい」
「……!
はいっ、すぐにお持ちいたしますね! 」
するとルーシェは自身のツインテを勢いよく揺らしながら顔をあげると、嬉しさを笑顔にあふれさせながら、気合を込めてうなずいた。
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ルーシェは、コーヒーをいれるのが本当にうまくなった。
エドゥアルドの味の好みはもちろん詳細に把握しているし、ノルトハーフェン公国の街にある喫茶店で勉強をしてからは、その日の気分を察していろいろなアレンジを加えてくれるようになった。
ほどなくして彼女が用意したのは、いつもよりも薄い味のコーヒーだった。
砂糖はなく、ミルクが少しだけ加えられている。
「お……、今日のは、なんだか、ずいぶんと薄味だ」
「はいっ。
エドゥアルドさまがお疲れのご様子でしたので、しっかりとした味よりもお茶と同じような感覚でお飲みいただける方が良いかなと思いまして。
薄味にしてみました」
一口すすったエドゥアルドが呟くと、ルーシェはうなずき、それから心配そうに眉を八の字にする。
「あの、もしお気に召さなかったのなら、すぐにいれ直してまいります」
「いや、これでいいよ、ルーシェ」
少年公爵はメイドを傷つけないためではなく、本心からそう言っていた。
確かに薄味のコーヒーには物足りなさのようなものも感じた。
しかし、二口、三口と飲み進めていくと、いつもの濃さのコーヒーよりも優しくその暖かさが身体の中で広がるような心地がして、疲れが溶けていく感覚になる。
「お代わりが欲しい」
「はい! ただ今! 」
やがてエドゥアルドがそう言って空になったカップを差し出すと、ルーシェはぱーっと明るく表情を輝かせた。
「お休みのところ失礼いたします、公爵殿下。
ヴィルヘルム殿が至急、お会いしたいと」
部屋の扉がノックされ、ミヒャエル大尉がそう知らせてきたのは、その時だった。
「ヴィルヘルムが……?
よし、すぐに通してくれ」
エドゥアルドは一瞬いぶかしんだが、自分のブレーンとして信頼しているヴィルヘルムが急いで会いたいというのならなにかもっともな理由があるのだろうと考え、すぐに部屋の中に入ってもらうように言った。
(アルエット共和国の軍事行動を、聞きつけたのだろうか? )
エドゥアルドはルーシェに用意してもらったお代わりのコーヒーがカップに注がれていく様子を見守りながら、彼の優秀な臣下がまた何か良い知恵を出してくれることを期待した。
すると、扉が開かれるのももどかしい、という急いだ様子で、ヴィルヘルムが姿をあらわす。
少年公爵はその時、ぎょっとしていた。
ヴィルヘルムの表情から、いつもの柔和な笑みが消えていたのだ。
「公爵殿下。急いで、夕食会の席にお戻りくださいませ」
そして余裕のない速足で主の前まで進み出ると、ヴィルヘルムは切迫した声で言った。
「このままでは、殿下が不在のまま、重大な決定がなされてしまう恐れがございます。
1分の猶予もございません。
ただちに、夕食会にお戻りを! 」




