第406話:「共和国、動く:1」
第406話:「共和国、動く:1」
エドゥアルドの返答に、ベネディクトの口元がかすかに動く。
どうやら口の中で小さく、自分以外には聞こえないように舌打ちをした様子だった。
少なくともこの場では、エドゥアルドはフランツよりの立場を取ったことになる。
到着が遅れているオストヴィーゼ公爵・ユリウスが到着するまでは待つべきだ、という期限付きではあるものの、いずれにしろすぐに皇帝選挙の実施を決めようというベネディクトの目論見には反対したことになるからだ。
それに、エドゥアルドがユリウスとは盟友関係にあるというのは、よく知られた事実だった。
そのことを隠して来たわけでもないし、そもそも、エドゥアルドもユリウスも、自身の立場を補強するために積極的に互いの盟友関係を利用してきているのだ。
ユリウスが到着するまでは待つべき、という言葉は、エドゥアルドにとっての[味方]が増えるのを待て、と言っているようなものだ。
早急に皇帝選挙の実施を決めたいと考えているベネディクトからしたら、扱いにくい相手が増えることになる。
敵、というわけではないが、懐柔するのに今よりも労力が必要になるのは間違いない。
ベネディクトが苦々しい表情を浮かべている一方で、フランツは余裕を見せている。
口元に柔らかな笑みまで浮かべて、彼は控えていた使用人に、コーヒーのお代わりを注ぐように手ぶりだけで命じた。
「もう1度おたずねするが、デニス殿は、いかように思われる? 」
すでに3人が意見を表明し終え、その内の2人は自分に同調しなかった。
しかし、残る1人、デニスが賛同すれば、2対2、少なくとも対等に持っていくことができ、そこから皇帝選挙の早期実施に向けた工作を展開していくこともやりやすくなる。
そんな思惑を抱えているのに違いないベネディクトは、再び、デニスへとその鋭い視線を向けた。
デニスは、先ほどよりも動揺を見せなかった。
それは少し時間があいてパニックが治まってきていたというのもあるだろうが、なにより、「せめてユリウス公爵の到着を待つべき」という、恰好の「逃げ道」があることに気がついたからだった。
だが、結局デニスは、一言も発することができなかった。
「公爵殿下! 急報にございます! 」
ノックをすることさえもせずに突然、部屋の扉をけ破るようにして、アルトクローネ公爵家の執事長があらわれるなり、切迫した声でそう叫ぶように言ったからだ。
「何事だ、騒がしいッ! 」
その老いた執事のことを、ベネディクトが睨みつけながら一喝する。
ただでさえ自分の思惑がうまくいっていないところに横合いから水をさされ、あからさまに不機嫌になっている。
「こ、これは、大変なご無礼を」
指摘されて執事は自身の非礼に気づいたのか、慌てて深々と頭を下げて謝罪した。
「急報、というと、ま、まさかッ!?
ち、父上に、なにかあったのか!? 」
一時は驚きの余り心臓の辺りを手で押さえていたデニスだったが、長年に渡って自身に仕えて来た執事が礼節を忘れてしまうほど動転している様子からただごとではないことが起こっていることを察して、血相を変えて立ち上がっていた。
この場でこれほど執事が慌てることと言えば、皇帝・カール11世の容態くらいのものだったからだ。
その言葉に、エドゥアルドとフランツは緊張し、身を固くする。
もし皇帝が崩御したのなら、皇帝選挙の実施は議論の余地なく、確実に実施されることになるからだ。
エドゥアルドの脳裏によぎったのは、現状のまま皇帝選挙に突入しては内戦が起きかねないという危惧であり、フランツの脳裏をよぎったのは、サーベト帝国による侵攻の被害から自領が立ち直れていない現状では、まず間違いなくベネディクトが皇帝に選ばれるだろうという危機感だった。
「い、いえ、陛下はご無事でございますっ!
そ、その件ではなくっ!
あ、アルエット共和国が、動いたのでございます! 」
だが、執事が伝えたのは皇帝のことではなかった。
一昨年に、タウゼント帝国とバ・メール王国が連合し、共和制が成立する以前に国家を統治していた王族を処刑したことに対する[懲罰]を理由として侵攻した相手。
アルエット共和国が、軍事行動を開始したという知らせだった。
その場に集まっていた公爵たちの内、3人。━━━フランツ、エドゥアルド、デニスの視線が、イスに腰かけたまま身体の前で腕組みをしているベネディクトへと向けられる。
ベネディクトが統治しているヴェストヘルゼン公国は、帝国にとって西の防衛の要となる場所だった。
アルエット共和国との最前線となるのがベネディクトの領国であり、有事が起こった時に真っ先に戦場となるのもまた、彼の国であるはずなのだ。
「それで、執事殿。
敵は、いつ、いずこに、どれほどの規模で攻撃を開始したのか? 」
しかし、ベネディクトは冷静だった。
自分が留守にしている間に自国が襲われているかもしれないというのに、彼は落ち着き払っている。
それは、ここで動揺して弱いところを見せられないという、皇帝選挙を意識した思惑以上に、自分の領国の防衛態勢に自信を持っているから見せることのできる態度だった。
ヴェストヘルゼン。━━━[砦]という意味を持つ言葉。
その名が示している通り、タウゼント帝国の西の国境を守るその公国は、天然の要害の地だった。
アルエット共和国とタウゼント帝国の国境を成す大河、国際河川であるグロースフルスの源流域を主な国土としているヴェストヘルゼン公国は、峻険な山脈地帯に広がっている。
その山間の平野部に人々は居住し、鉱物資源の採掘、山肌を利用した牧畜などで生計を立てて暮らしている。
そこで採掘される良質な鉱石は、グロースフルスの水運を利用して北の海、フリーレン海にまで運ばれ、海路を利用してノルトハーフェン公国にも輸入されている。
その国土全体が、[砦]だった。
峻険な山脈は外敵の接近を拒み、容易に侵略することのできない堅固な城壁となる。
そしてその国土に点々と、交通の要所を抑える形で要塞群が築かれており、そこには常に多くの兵士たちが守りについている。
たとえアルエット共和国が大軍で攻め寄せて来ても、容易に陥落させられることはない。
そもそも、山脈によって交通路が限られるから、せっかくの大軍も一度には攻め寄せてくることができない。
それを知っているから、ベネディクトは冷静なのだ。
「は、はい、ベネディクト様」
うなずいた執事は、少し冷静になり、懐から取り出したハンカチで額の汗をぬぐうと、求められた通りに整理して報告する。
「共和国が軍事行動を開始したのは、1週間前のことでございます。
その目標は、我が国ではなく、バ・メール王国。
その総兵力は、━━━50万であるとのことです」




