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メイド・ルーシェのノルトハーフェン公国中興記(完結・続編投稿中) ~戦列歩兵・銃剣・産業革命。小国の少年公爵とメイドの富国強兵物語~  作者: 熊吉(モノカキグマ)
・第14章:「南方戦役」

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第216話:「サーベト帝国」

第216話:「サーベト帝国」


 アルエット共和国への侵攻戦争以来、1年ぶりとなる軍の招集。

 前回は隣国に対する出兵であったが、今回は、タウゼント帝国を防衛するための出兵であるとのことだった。


 アルエット共和国軍に対し、帝国軍が手痛い敗北を受けた。

 その事実をもって[帝国の弱体化]の証拠とみなし、帝国からなんらかの利益を引き出す絶好のチャンスであると隣国のどこかが考える。


 そんなふうに危惧されていたことが、現実のものとして起こったのだった。


 タウゼント帝国に対して軍を起こしたのは、南の大国、サーベト帝国だった。

 この帝国は、その指導者のことを[スルタン]と称し、そのスルタンの名をもってタウゼント帝国に対する侵攻の軍を旗揚げしたのだ。


 サーベト帝国は、タウゼント帝国に匹敵するか、それ以上の規模を誇っている。

 そして、タウゼント帝国とはまったく異なる文化を持った国家だった。


 その国家を構成している人々の習俗も、宗教も、なにもかもが違っている。

 そのせいもあってか、タウゼント帝国とサーベト帝国との間では、歴史上、何度も対立がくり返されて来た。


 それは、サーベト帝国のスルタンが、タージュ家と呼ばれる一族に代わってからも、変わりのない関係だった。

 異なる文化、価値観を有する両国はたびたび干戈かんかを交え、侵攻したりされたりをくり返して来た。


 エドゥアルドの父親、前ノルトハーフェン公爵が戦死した戦いも、サーベト帝国を相手としたものだった。

 カール11世は、自らの治世に歴史に残るようななにかしらの大きな事績を残そうと欲し、帝国軍を動員して、サーベト帝国へと侵攻したのだ。


 その戦争は当初、タウゼント帝国の有利に進んでいった。

 タウゼント帝国軍は大きな領土を占領し、成果をあげていた。


 しかし、タウゼント帝国よりもさらに巨大な国家であるサーベト帝国は、反撃に転じた。

 タウゼント帝国が動員した兵力以上の大兵力を動員し、広大な占領地を獲得したことで兵力が分散し、補給線がのびきっていたタウゼント帝国軍を急襲したのだ。


 結果、タウゼント帝国軍は惨敗した。

 皇帝以下の諸侯を逃すためにエドゥアルドの父親とノルトハーフェン公国軍は殿となって奮戦したが、エドゥアルドの父親をはじめ、名のある貴族たちが多く戦死するという悲惨な戦いとなった。


 国境線は元の状態へと戻り、戦争はなんの利益も得られないまま終結した。

 そしてタウゼント帝国とサーベトと帝国の間では現状維持を趣旨とする講和条約が締結され、現在までは平和が維持されてきていたのだ。


 だが、アルエット共和国への侵攻戦争でタウゼント帝国軍が敗北したことを受けて、サーベト帝国は動いた。

 前回の戦争でタウゼント帝国から侵攻されたことに対する報復を名目に、実に、40万と号する大軍を動かし、タウゼント帝国に対して侵攻してきたのだ。


 その目標は、タウゼント帝国の南方にあって、5家の被選帝侯である公爵家の1つ、ズィンゲンガルテン公爵家が治める、ズィンゲンガルテン公国だった。


 元々、タウゼント帝国の5つの被選帝侯は、東西南北、そして中央を抑えるようにそれぞれ配置されている。

 北を守るのがノルトハーフェン公爵家、東を守るのがオストヴィーゼ公爵家、南がズィンゲンガルテン公爵家、西がヴェストヘルゼン公爵家で、中央がアルトクローネ公爵家だった。


 南の守りを担当しているのは、ズィンゲンガルテン公爵家だ。

 ズィンゲンガルテン公爵家は、タウゼント帝国の南方に配置された諸侯らと共に南の国境を守り、代々、サーベト帝国と対峙して来た。


 しかし、ズィンゲンガルテン公国は、先年のアルエット共和国の侵攻戦争で、甚大じんだいな損害を受けていた。

 タウゼント帝国とバ・メール王国軍の連合軍の中央部を構成していたズィンゲンガルテン公爵家は、その指揮下にあった帝国南部の諸侯の軍勢と共に、ムナール将軍率いる共和国軍の集中攻撃を受けて大損害を出し、敗走していた。


 アルエット共和国への侵攻戦争での決戦となったラパン・トルチェの戦いで帝国諸侯の軍隊はそれぞれ少なくない損害を受けていたが、損耗率という点では、ズィンゲンガルテン公国が最も大きかったのだ。


 そうして、帝国の南の守りが弱体化していた隙を、サーベト帝国は突いていた。

 サーベト帝国はスルタンであるサリフ8世を旗頭として動員した大軍をもってタウゼント帝国領へと侵入し、タウゼント帝国の諸侯の小国を蹴散らし、ズィンゲンガルテン公国の首府であるヴェーゼンシュタットを包囲した。


 ズィンゲンガルテン公国軍は、なすすべもなく包囲されるしかなかった。

 サーベト帝国軍は大軍であったし、ラパン・トルチェの会戦に敗北してから1年が経とうとしていていたが、ズィンゲンガルテン公国軍は戦いで受けた痛手から回復しきっていなかった。


 軍隊が大きな損耗を受け、そこから回復するためには、単に兵士を補充し、武装させればいいというわけではなかった。

 その軍隊の指揮系統を構成する士官・下士官たちも補充し、充実させなければ、軍隊として効果的な戦いをすることはできないのだ。


 しかし、こういった士官・下士官というのは、育成に多くの時間が必要だった。

 臨時に下の階級の者をくりあげして、数だけはそろえることができても、その質が整わなければ軍隊の統率はうまくいかない。


 ズィンゲンガルテン公国軍は、まだ、再建の途上にあった。

 だからこそ、サーベト帝国の侵攻に対してなんら対処することができなかったのだ。


 もっとも、タウゼント帝国へと侵攻して来たサーベト帝国軍は、その数40万と号してはいるが、通例から言って実数は20万ほどであろうと見積もられていた。

 というのは、こういった大規模な軍を起こして作戦する時、サーベト帝国では自らの兵力を大幅に盛って発表するのが常であり、大体、実数の2倍程度に盛って発表することが多かったからだ。


 それでも、20万といえば大軍に違いなかった。

 対してタウゼント帝国軍が動員できる兵力は、それに遠く及ばない規模でしかないのだ。


 帝国諸侯もまだ、先年の敗戦から立ち直りきっていないだけでなく、他の国境を接している隣国に対する守りも固めておかなければならないからだ。


 特に、西の隣国、先年に戦争状態に突入してから未だに正式な講和条約も休戦条約も結べておらず、戦争状態が続いているアルエット共和国に対しては、警戒を強めておかなければならなかった。

 そのために、西の守りの要であるヴェストヘルゼン公爵家は、主力を率いて今回の戦いに参戦することができなかったし、その指揮下に置かれている帝国西方の諸侯も事情は同じだった。


 現状のタウゼント帝国が集めることのできる兵力は、10万をやや超える程度に過ぎないだろう。

 地の利があるとはいえ、苦しい、油断のならない戦いになるのに違いなかった。


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