第197話:「答えは1つ」
第197話:「答えは1つ」
ルーシェは必死に、涙をこぼしそうになるのをこらえていた。
なぜなら、そもそも[エドゥアルドさまの一番近くで働きたい]というルーシェの気持ちは、ルーシェの都合であって、仕えるべき主人、エドゥアルドの都合ではないからだ。
自分は、エドゥアルドたちに命を救ってもらった。
快適な生活と、楽しい毎日を、幸福な時間を与えてもらったのだ。
それだけでも、過分すぎることなのに。
このうえ、なにかを望むというのは、ルーシェにはあまりにも贅沢なことであるように思われた。
「実はな、ルーシェ。
今日は、お前に伝えたいことがあって、呼んだんだ」
一口めのコーヒーを飲んで以降、こぼれそうになる涙を必死にこらえながらコーヒーカップを両手で握りしめていたルーシェに、エドゥアルドは突然、そんなことを言った。
その言葉に、ルーシェはビクリ、と肩をふるわせた。
(やっぱり……)
いよいよ、涙がこぼれそうになって来る。
(やっぱり、私は……、エドゥアルドさまのメイドじゃ、いられなくなるんだ……っ! )
そんな不吉な予感が、ルーシェの心を絞めつけている。
しかし、次にエドゥアルドが口にした言葉は、ルーシェが想像していたものとはまるで異なるものだった。
「実はな、ルーシェ。
アンネが、この屋敷の使用人を、退職することになったんだ。
だから、休みの途中で悪いんだが、ルーシェ。
元々、休みが終わったらまた僕のメイドとして、また今まで通りに働いてもらうつもりだったんだが、復帰するのを早めてもらえるだろうか? 」
それは、ルーシェが「聞きたい」と願ってやまなかった言葉だった。
だが、その言葉を聞けるとは、ルーシェは少しも思っていなかった。
なぜならルーシェは、自分にはアンネに勝てるところなど1つもないと、すっかり自信を失ってしまっていたからだ。
空耳ではないか。
そんな風に思っていたルーシェだったが、そのルーシェの考えを、アンネの声が否定する。
「すみません、ルーシェ先輩。
実は私、前に雇っていただいていたお屋敷に、もう一度、雇っていただけることになりまして。
せっかくお休みのところを申し訳ないのですが、また、ルーシェ先輩に頑張っていただかないといけないことになってしまったんです」
そのアンネの言葉で、自分が願望から来る幻聴を聞いたのではないと理解したルーシェは、はっとして顔をあげた。
そして視線をアンネへと向けると、アンネはにこにことした笑顔で、かわいらしくルーシェにウインクして見せる。
自分が仕事を休んでいる間に、いったい、なにが起こったのか。
どうして、こんなに急に、アンネが以前の職場に戻ることになったのか。
ルーシェの頭の中にはそんな疑問が浮かんできていたが、しかし、そんなことはすべて、ルーシェにとっては些末なことでしかなかった。
また、エドゥアルドの側で働くことができる。
そのことだけでもう、ルーシェの胸の中は張り裂けんばかりに、いっぱいいっぱいになっていた。
嬉しいのだ。
だが、同時に、そんなふうに思っている自分に、ルーシェは少しだけ自己嫌悪してもいた。
アンネなんて、いなくなってしまえばいいのに。
1人、部屋に閉じこもっていた時、ルーシェの心の中には間違いなく、そんな黒い感情があったのだ。
そして、実際にアンネがこの屋敷からいなくなると知って、ルーシェは、寂しいと思うよりも、嬉しいと思ってしまった。
アンネは、とても良い子で、メイドとしての技量も素晴らしく、尊敬に値する相手なのに。
ルーシェはまるで、大嫌いな相手が消えてなくなってしまった時のような、胸のすくような感覚を覚えてしまっていたのだ。
「そういうわけだから、ルーシェ。
また、明日からでも、僕のことを手伝ってくれないか?
もちろん、ずいぶん疲れているようだし、もう2、3日、最初の予定通りに休んでくれてからでもいい。
どうだろう?
また、頑張ってもらえるだろうか? 」
そういうわけとは、いったい、どういうわけなのだろう。
あまりにも状況の変化が激しく、そしてその変化は自分にとって都合の良すぎるもので、ルーシェはまた、これは本当に現実のものなのかと疑いそうになってしまう。
しかし、エドゥアルドからの問いかけに対する答えは、1つだった。
エドゥアルドが自分を、必要としてくれている。
すっかり憔悴して衰弱し、やつれていたルーシェだったが、エドゥアルドに必要としてもらえたとわかると、急に、全身に力がみなぎって来るような感覚がした。
それに、エドゥアルドは、「元々ルーシェに元の仕事をしてもらうつもりだった」とも言っていた。
それはつまり、ルーシェが心配していたいろいろなことはすべて杞憂に過ぎず、ルーシェはずっと、エドゥアルドから必要としてもらえていたということになる。
ルーシェは急に、激しい空腹と喉の渇きを覚える。
思えば、お休みをもらってからのこの2、3日の間、ロクに食事をとった覚えがない。
ルーシェはその空腹と喉の渇きのままに、ゴクゴクと勢い良く、一気にコーヒーを飲み干し、そして、空になったカップを勢いよくソーサーの上に戻すと、ぴょん、と元気よくソファから立ちあがり、両手でガッツポーズを作って見せていた。
「はい、もちろんです、エドゥアルドさま!
ルーシェ、今までと同じように、頑張ります!
……いえ!
今までと同じでは、なく!
シャーリーお姉さまや、アンにも負けない立派なメイドになって、エドゥアルドさまのお役に立てるよう、もっともっと、頑張りますね! 」
「……ああ。
よろしく頼む」
急に以前のような元気を取り戻し、瞳にも輝きが戻ったルーシェの様子にエドゥアルドは一瞬、たじろいでしまったが、すぐに安心したような笑顔を浮かべ、そう言ってルーシェにうなずいてみせていた。




