第172話:「自分の好きなこと」
第172話:「自分の好きなこと」
ルーシェは、休むことを受け入れざるを得なくなった。
なりふりかまわず抵抗してみたものの、1人のメイドでしかないルーシェがかなうはずもなかったのだ。
そもそも、休みたくない、と駄々をこねることこそ、おかしい。
それは、ルーシェも頭では理解している。
しかし、自分が仕事を離れ、そして、その間に自分の居場所が他のメイド、アンネに取られてしまうのではないかと思うと、いてもたってもいられなかった。
「私……、どうすればいいんでしょうか……」
ルーシェは、靴だけは脱いだがメイド服に身を包んだまま、シャルロッテに座らされたベッドの上で膝を両手で抱えて、途方に暮れた様子で呟いた。
これは、エドゥアルドからの温情、気づかいだ。
それをありがたいことだと、嬉しいと思う気持ちも確かにあるのだが、ルーシェはやはり、心配でならない。
休め、と言われても、とてもじっと休んでいるような気持にはなれなかった。
だが、ルーシェは、無理にでも休まなければならなかった。
どこかでこっそり仕事をしようにも、ヴァイスシュネーではたくさんの人々が働いており、絶対にルーシェの姿は目撃されてしまうだろう。
そしておそらくシャルロッテのことだから抜かりなく、「お休みの間、ルーシェが勝手に働いているのを見かけたら、連絡してください」と、ヴァイスシュネーで働いている人々にお願いしてあるだろう。
こっそり働こうとしても、すぐにシャルロッテに捕まって、またこの部屋に連れ戻されることになるだろう。
だからルーシェは、心配と、焦燥感と、「自分なんかが休んでいて、いいのかな」という不安をいだきながら、どうにか、休む方法を考えなければならなかった。
このままこうして膝を抱えているか。
それとも思い切って、ベッドに横になって眠ってしまうか。
しかしルーシェはまったく眠くないし、ただじっとしているだけなど、到底、耐えることなどできないだろう。
かといって、外に出かけていくような気分にもなれなかった。
ルーシェはきちんとお給料ももらっているし、話しによるとどやら特別に一時金までもらえるということなので、ひとまず、なにをするにも困ることはないはずだった。
外出許可を得て街でなにか買い物をしたり、美味しいものを食べたり、気のおもむくままにぶらぶらと散歩をしてもいい。
幸い、ノルトハーフェン公国の首府である都市、ポリティークシュタットは、公爵の住む城館であり政庁でもあるヴァイスシュネーのおひざ元だけあって、治安がとてもいい。
エドゥアルドが統治者として行政改革に乗り出してからというもの、その治安の良さには拍車がかかっており、ルーシェのような少女が1人で出歩いても、変に人目のない裏通りや人通りの少ない深夜でもない限り、なんの問題も起こらないはずだった。
だが、普通の人なら楽しいと感じるはずの外出も、ルーシェにはまったく、魅力的に思えない。
そもそもルーシェには、買い物をしたり、レストランやカフェで美味しいものを食べたり、散歩をしたりといった経験が、ない。
それが楽しいものだということを自分自身の経験として知らないのだから、なんとなく休みの日にはそういうことをするものなのだと、他の人々の様子から知ってはいるものの、自分もやりたいとは思えなかった。
自分の好きなようにしていい。
ルーシェはそう言われてはいるものの、お仕事以外で、[好きなこと]がなんなのか、ルーシェにはわからない。
「はぁ……。
ルー、お休みなんて、いらないのに……」
思わず、ため息が出てしまう。
しかし、さらに駄々をこねてみてもどうにかなるとはまったく思えなかったし、ルーシェは膝を抱えたまま、悶々(もんもん)としていることしかできなかった。
その時、ルーシェの部屋の扉の方で、パタン、という音がした。
反射的にルーシェが視線を向けると、そこには、ルーシェの家族、犬のカイの姿がある。
ルーシェの部屋の扉には、犬のカイと、もう1匹の家族、猫のオスカーが自由に出入りできるよう、動物用の扉が追加で設置されているのだが、どうやらそれを使って、カイが部屋に戻ってきた様子だった。
カイは、部屋にルーシェがいるのに気づいて、最初は驚いて立ちすくんでいるようだった。
いつもならルーシェは働いている時間だったから、部屋にはいないと思っていたのだろう。
しかし、数秒後、カイは喜びを爆発させた。
いないと思っていたルーシェがいることに気づくと、カイは「ワン! 」と嬉しそうに吠え、尻尾を千切れてしまうのではないかと心配になるほど勢いよく振りながら、トトトト、とルーシェに駆けよってきて、そして、勢いよくジャンプして飛び込んできた。
「うひゃぁっ!? 」
そのカイの勢いに、ルーシェは押し倒されてしまう。
そしてカイは、そんなルーシェの顔を、嬉しそうにぺろぺろとなめた。
「こら、カイっ、やめてったらっ! 」
そのくすぐったさにたまらず、ルーシェは楽しそうな悲鳴をあげていた。
ひとしきりじゃれついたことで満足したのか、やがてカイはルーシェの上からどくと、ベッドからストンと飛び降り、いつの間に誰が教え込んだのかはわからないが、その場にお行儀よくお座りをし、じっと、ルーシェのことを見つめた。
なにかを期待しているような表情だ。
「もう、カイったら、しょうがないんだから」
まるでルーシェに「遊んで! 」と催促しているようなそのカイの様子に、ルーシェは思わず苦笑したが、同時に、ずいぶん長い間、こうやってカイと遊んだことがないということに気がついた。
スラム街にいたころだって純粋に遊んでいられたことなどほとんどないのだが、いつもルーシェとカイとオスカーは一緒にいた。
だが、エドゥアルドのメイドとして働くようになって以来、別々に行動する時間が多くなってしまっている。
そんなことでルーシェたちの絆がかすんだりすることはないが、寂しい、と思うことは、確かにあった。
カイは、無邪気で、遠慮がなかった。
事情は犬である彼には理解できずとも、そこにルーシェがいる、と知ると、カイはルーシェに飛びついて喜びと嬉しさをあらわし、そしてルーシェに一緒に遊んでとおねだりしている。
「自分の、好きなように……」
ルーシェはそんなカイの姿を見つめながらそう呟くと、部屋の中で膝を抱えて悶々としているよりも、久しぶりにカイと一緒に遊ぶのもいいなと、そう思っていた。




