第三十三話「過去」
体験講習と説明会が終わり、リョータは教室のざわめきの中で立ち上がった。
蒸し暑い日だったが、受験という目標を共有する同年代の熱意は、彼の中に確かな熱を生んでいた。
国公立を目指すという目標は、前世での「どうせ俺なんか」という諦念を打ち破り、自分自身が人生をやり直せている意味を強く感じさせてくれる、強い動機付けになっていた。
静かに荷物をまとめている奏と目が合った。彼女の落ち着いた雰囲気は、教室の喧騒の中でも際立っている。
リョータは軽く手を上げると、奏はそれに応えるように静かに頷き、合流した。
「どうだった、体験授業」とリョータが尋ねる。
「まあ、悪くはないわね」と奏は冷静に評した。「リョータにしては、真面目に聞いていたみたいだけど?」
「俺の扱い相変わらず悪くない?奏と成績そこまで離れてないよね?」と少し落ち込みつつ返した。
「冗談よ。」
奏は悪びれもせず、あっさりと言った。
俺は、ふっと軽くため息を突きつつ、仕方ないなという表情を返した。
●
二人は予備校を出て、駅へ向かって歩き出す。夕暮れの湿った空気が肌にまとわりつく。リョータは、昼間の教室での既視感を頭の隅に追いやりながら、次の言葉を探した。
「喉も渇いたし、せっかくだから、どこか寄っていかないか?」
何となく、このまま帰るだけが勿体ない気がしたので奏に聞いてみた。。
奏は一瞬考える素振りを見せたが、「そうね、たまにはいいかも」と同意し、二人は駅前のファーストフード店へと入った。
窓際の席に座り、ドリンクとポテトを前にして一息つく。予備校の緊張感が解け、少しだけリラックスした空気が流れる。
「ところで、智美には断っておかなくていいの?今から浮気するんだけどって」
「大丈夫ってか、相手か奏だと伝えたら、きっと浮気自体を信じてもらえないさ。」
「そう?だったらいいのだけど。リョータには女心が分からないから、少し心配。」
「…一応、奏と寄り道して帰ることを報告しておく…。」
俺はスマホを取り出し、智美にメッセージを送る。
「そうね…。私からも、リョータ愛してるわと智美に送っておくわ。」
「…お前ね…。」
「冗談よ。」
相変わらず悪びれない奏。
「そういえば」と、奏は、近況報告のように話し始める。
「この前、志穂と恵と三人で遊びに行ったの。志穂は少し雰囲気が変わってたわ。」
「コバちゃんと芽衣とも遊んだわ。芽衣は…、木島さんって分かる?」
!!!!
「木島芽衣」――その名前を聞いた瞬間、俺の頭に鈍器で殴られたような衝撃があった。
(どうして…俺は忘れていた……)
俺は、無意識に蓋をしていた記憶を、強制的にこじ開けられたような衝撃に襲われた。
彼女は、前世で初めて付き合った彼女…。
一緒に出掛けた先で倒れ、懸命な治療も虚しく助からなかった、あの耐え難い悲しみと後悔。
辛くて、記憶に蓋をしていたということか…。
そういえば、彼女は、壮馬の時計を届けに来てくれていた。
俺は感情が絡みすぎて、記憶を曖昧になっていたようだ…。
「…木島さんは…ちょっと分からないな。」
俺は必死に動揺を抑えつけ、グラスの氷をかき混ぜながら、努めて平静を装って応える。
「それと、あまり良くない話だけど、秋本はちょっと変な感じになってるみたい。冬田が言ってた。」
「冬田と秋本はK高だっけ。」
俺は、秋本の話にも、未来の変化の波紋を感じた。前世の自分が関わらなかったことで、別のところで歪みが生まれているのか、と不安がよぎる。
そして…、奏から質問が飛んできた。
「リョータは、剣太や拓とは今でも繋がっているの?高校は別々になったけれど、結構仲が良かったでしょ。」
「俺か?ああ、GWの時に皆で会ったきりあってないな。たまにメッセージのやり取りをするくらいだ。言われてみると…剣太もA高に行ってから微妙かも知れない。拓は最近バイトを始めたって言ってた。」
俺は、話の流れを変えるように、ふと思い出した出来事を口にした。
「そういえばこの前、学校からの帰りに、久しぶりに中学の時の理科の平田先生を見たんだ。なんか、随分と老けてた気がする」
奏は、少し考える素振りをしてから、「ああ、あのリョータを嫌ってた先生ね」と、あっさりと言い放った。
「そう、それ! 真面目に授業受けてるのに、意味が分からなかったな。今思い出すと、ちょっと腹立つな。」
俺は過去の理不尽さを思い出し、少し憤慨した。
「ふふっ。何故か嫌われてたね。」奏は微かに笑う。
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俺が今の高校生活の充実ぶりを話した後、奏が触れた唯の彼氏の話で盛り上がった。
「唯が彼氏を作るなんてな。あいつのハードルを超えれたお方に一度お目にかかりたいものだ。」
「唯に伝えておくね。」
「ごめん。鬼電が来るからやめてくれ…。」
「私、ちょっと甘いものが欲しいな?」
「OK。OK。いくらでも食べてくれ…。」
俺はあっさりと白旗を挙げた。
俺は無理やり話題を変えるべく、
「そういや壮馬が…、また彼女を振ったらしい。」
「そういえば、そんな話を聞いたわ。おな中の身としては、あまりひっかえとっかえ彼女を作るのはどうかと思うけども。」
「見た目も性格も良いんだが…、あいつはあいつで、理想の女性像が高いからな…。」
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ふと、奏は、真剣な表情に戻った。
「それで、昼間話していた進路のことだけど。リョータは国公立って言っていたわね。具体的に、どこを狙っているの?」
「漠然とだけど、H大かなって思ってる。」
それを聞いた奏の目が、少しだけ見開かれた。その表情は驚きの色を帯びていた。
「そう。私もH大を目標の一つにしているわ」
俺は既視感とは違う、奇妙な運命の重なりを感じた。
前世では、自分は私大に行ったため、奏がどこを目指していたかさえ知らなかった。だが、今、同じH大という目標を目指している。
奏は静かにリョータを見つめた。
「合格したいね。」
俺はまっすぐ前を見つめて言った。
「もちろん。」
奏は一つ頷き、「お互い、頑張ろ。」と応じた。
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談笑が途切れ、二人はファーストフード店を出て帰路に就く。
少し歩き、お互いの家の方向が分かれる道の前で別れの挨拶をする。「今日は楽しかった。ありがとな。」
奏は「こちらこそ。また学校で」と応じ、静かな笑顔を見せた。
改札を抜ける俺の心には、芽衣の存在を再認識した衝撃が重くのしかかっていた。
「芽衣…。」
俺はふと彼女の名前を呟いた…。」
5年後、亡くなる運命の彼女のことを思い、胸が痛んだ…。
こんな時、1度目の人生であれば、酒を飲んで眠りについたのだろう。
この時ばかりは、まだ自分が未成年であることが少しもどかしく感じ…、足取り重く、家に向かった…。




