第09話 姉と妹
新太と詩葉がお出掛けしたその日の夜。
新太に送ってもらって家に帰ってきた詩葉は、玄関の前で新太と別れたあと、風呂に入り、夕食を取り、寝る支度をして自室にいた。
そして、どれほどの時間こうしていただろうか──詩葉はベッドに腰掛けたまま呆然と虚空を眺めていた。
(一日って、とても早いです……)
帰ってきてから詩葉の頭の中にあるのは、今日のお出掛けのことのみ。
そして、そのことを思い出すたびに顔に熱がこもっていく感覚がする。
しかし────
(手、くらい……繋いでみたかったです……)
実は詩葉、今日のお出掛け中に何度か新太の手を掴もうとチャレンジしていたのだ。
一番のチャンスは並んで映画を見ている最中だが、二人とも映画に夢中になってしまっていたし、詩葉も新太の映画鑑賞の邪魔をしたくない。
それ以外で、並んで歩いているときや、人目のないカラオケの個室でもチャレンジしたのだ。
だが、触れる寸前でいつもバクバクとうるさい心臓が限界に達し断念。
ならば気を利かせて新太から──とも考えていたが、詩葉が手を繋ぎたいことに気付く素振りすらなく……案の定最後までそのままだった。
ただ、カラオケの個室で新太の手を自分のお腹に持ってくるという大胆な行動──頑張った詩葉は称賛されるべきだろう。
だが、やはりそういうのではなく、手を繋ぎたかったのだ。
そんなとき────
「詩葉、まだ起きてる?」
コンコンと二回扉をノックする音と共に、琴音の声が扉越しに聞こえてくる。
詩葉が「起きてるよ~」と返事をすると、琴音が部屋に入ってきた。そして、そのままベッドに座っている詩葉の隣に腰を下ろす。
「詩葉、本当に新太と仲良くなったよね? 今日なんて、二人でお出掛けしてきたんでしょ?」
「……ッ!?」
ボッ……と、詩葉の顔が真っ赤に紅潮する。
いざこうして他人にお出掛けと言われると、無性に恥ずかしくなってくる。
琴音はそう恥ずかしがる詩葉を見てクスリと笑う。
そして、詩葉を見る瞳は、どこか尊いものを見ているようだ。
「新太、格好良いよね?」
「え……?」
「アイツさ……無条件に人に優しくして、面倒見が良くて、でもどこか抜けてて……ちょっと子供っぽいところもあるけど、それでもやっぱり頼りになって」
琴音は詩葉から視線を外し、真っ直ぐ前を見る。
先にあるのは画面の付いていないテレビ。しかし、琴音は間違いなくその瞳に新太の姿を映しているのだろう。
「そんなのズルいよね? で、たちの悪いことに、こういうことに関してはすっごい鈍くてさ、人の気持ちなんで全然気付いてくれないの」
「お姉ちゃん……?」
不思議だった。
突然なぜ琴音がそんな話をするのか──詩葉はただ不思議そうに琴音の横顔を見詰めていて…………
「ねぇ、詩葉? 新太のこと、好きなの?」
詩葉は、一瞬その栗色の瞳をいっぱいに見開いた。そして、自分の心を確かめるように目を伏せたあと、再び詩葉の顔を見る。
「……多分」
「……そっか」
断言は、出来なかった。
なぜなら、詩葉自信こんな気持ちになるのは初めてなのだ。
幼い頃から“天才”だともてはやされ、学校でも詩葉の回りにはいつも人がいた。
────友達?
違う。
天才子役『碓氷詩葉』に期待し、羨望し、目を輝かせる人達であって、誰一人として碓氷詩葉を見ていない。
そして、それらが、まだ小学生だった詩葉には到底背負いきれないほどのプレッシャーとなった。
詩葉は、学校に行かなくなった──行けなくなった。
でも、新太は違う。
『碓氷詩葉』ではなく碓氷詩葉を見てくれる。
変に期待もしないし望みもしない。ただ、ありのままの自分という存在を相手にしてくれる。
その嬉しさはやがて熱となり、心臓の鼓動を早め、頬を赤くし──気付けば新太のことばかり考えるようになっていた。
詩葉はこれが恋であると自分で断言出来るようになるまで、これから考えていかなければならない。
「お、お姉ちゃんは──」
「──応援してるよ!」
琴音は詩葉の言葉を遮ってそう言った。
「ただでさえ新太は鈍感。加えて詩葉はまだ中学一年生。多分今の新太は、詩葉を子供で、世話をする対象としか見てないと思う……」
「うん……」
琴音はしゅんと肩を落とす詩葉の頭にポンと手を置いて微笑んだ。
「でも、大丈夫! 詩葉は可愛い! 私の自慢の妹! そんな詩葉なら、きっと新太も振り向いてくれるよ!」
「お姉ちゃん……」
琴音はそう言い切って立ち上がると、歩いていって部屋の扉のノブに手を掛ける。
「……応援、してるから」
「…………」
琴音は最後にも笑ってそう言うと、詩葉の部屋を後にした。
閉まった扉を、詩葉は複雑な表情で見ていた。
詩葉にはわかる。天才子役として様々な演技をこなしてきた、詩葉にはわかってしまうのだ。
琴音のその笑顔は無理をしていた────
全てが偽りということでもないだろう。
だが、何か──諦めたものの、やはり心のどこかで捨てきれない何かが、あの笑顔を作っていた。
何か──その答えは単純明快。
まだ人生経験の少ない詩葉にだってしっかりとわかる。
(お姉ちゃん……まだ、新太君のこと──)
詩葉はバタンと背中からベッドに倒れ込んだ。
そして、天井を見詰めたあと目蓋をゆっくりと閉じて、自分の胸に片手を当てる。
(──好きなんだ)